本能寺の変 その時光秀は… 23 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

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※「光秀冤罪説を考える」シリーズの記事をはじめて
お読みくださる方は、まずこちらの「はじめに。」から
お読みください。

 

 

 

天正10年6月、本能寺の変がおきた時点での信長の周辺状況を

見ておきます。

 

 

この年の3月、織田軍は甲斐方面へと侵攻し、長年にわたり最大の

宿敵であった武田氏を滅ぼすことに成功しました。
先陣を切って実質的に戦闘の指示を行ったのは、天正4年に信長から

織田家の家督を譲られ岐阜城主となっていた嫡男・信忠です。

 

 

信濃・甲斐・駿河・上野の四カ国にわたる広大な領国を有していた

名門武田氏は、驚くほどあっけなく織田軍に滅ぼされてしまいました。

信玄の跡を継いでいた勝頼は自刃して果て、残る家臣は

ちりぢりになりました。
武田氏が滅んだ後、関八州は滝川一益に与えられました。

武田氏が滅んだことにより、上野国の国衆や北関東の大名たち、

それに関東の雄北条氏や奥羽の伊達氏・蘆名氏らも次々と信長に

恭順し、従属していきました。

 

 

武田氏と並ぶ信長の宿敵だった上杉氏は、謙信亡き後景勝の時代に

なっていました。こちらは織田軍の北陸方面軍団長・柴田勝家と

交戦中で、勝家に包囲された魚津城が落城間近でした。

ここを落とされると上杉氏は瀕死の状態になることがあきらかでした。

 

 

東国はあと少しで制圧に成功するというところでしたが、一方西国へは

これから兵を進めるという状況でした。
中国方面では、秀吉が毛利氏と交戦中で、備中高松城を水攻めに

している真っ最中です。

後(うしろ)巻きとして安芸から毛利の大軍が高松城に迫っていたため

秀吉が信長に救援要請の使者を送り、それにこたえた信長が

先陣として光秀の備中派遣を決定していました。

 

 

四国では長宗我部元親と織田軍の戦いがはじまろうとしているところでした。

信長は元親に朱印状を与え、四国は元親の「切り取り次第」好きに

してよいと約束を交わしていましたが、信長はその約定を反故にして、

阿波の三好氏を支援することにしました。

元親が征服した伊予・讃岐および阿波半国を手放すよう迫り、

それを拒否した元親を討伐するため、四国へ派兵することを

決定しました。

討伐軍の大将は、信長の三男で伊勢の神戸氏の養子となっていた

神戸信孝です。信孝をあらためて三好氏に養子としていれ、いずれは

四国を信孝に与えるもくろみだったようです。

 

つまり本能寺の変直前の織田軍団には、以下の五つの大軍団が

存立していました。

 

 

関東方面軍 司令官・滝川一益
北陸方面軍 司令官・柴田勝家
近畿方面軍 司令官・明智光秀
中国方面軍 司令官・羽柴秀吉
四国討伐軍 司令官・神戸信孝

 

 

 

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