本能寺の変 その時光秀は… 22 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

※人気ブログランキングに参加しています。
よろしければバナーをクリックお願いいたします。

 


人気ブログランキングへ

 

※「光秀冤罪説を考える」シリーズの記事をはじめて
お読みくださる方は、まずこちらの「はじめに。」から
お読みください。

 

 

 

天正10年6月2日早暁、桂川を渡り終えた明智光秀の軍勢は
京都の市街地へと侵入します。

 

 

当時の京都は、大きく上京(かみぎょう)と下京(しもぎょう)とに
分かれていました。戦国時代の京都といえば、平安の昔から
引き続き日本の首都であり、日本で最大の都市だったことから
多くの建物が建ち並ぶ様子を想像する方もあるかもしれません。
ですが実際には、戦国時代の京都の市街地は、現在とは比べものに

ならないちいさな規模の街でした。

 

応仁・文明の乱以降、幕府の統治能力が低下し、乱の収束後も

京都の治安は回復しませんでした。乱の最中に放火されたり

壊されたりした建物は、消失したままでした。放火や略奪行為、

さらに度重なる大火によって街の復興はなかなか進まず、家々の数は

かつての十分の一にまで減ってしまっていました。

信長の時代になっても市街地はかつての姿に復興して

いませんでした。

 

 

上京と下京はそれぞれ堀や土塁、木戸門や櫓門によって構成された

惣構(そうがまえ)に囲まれ、その二つの地区は、南北に走る室町通

ただ一本で繋がっているだけでした。惣構の周囲には畑が作られ、

内裏のすぐそばにまで畑は広がっていました。その畑の海の中に、

上京・下京の二つの城塞が島のように浮いている不思議な光景が、

信長や光秀たちの見ていた京都の街の姿でした。

 

二つの城塞都市の内部は、それぞれ街路が十字に交わる箇所に

木戸門が作られ、夜間は火がたかれ、不寝番が置かれていました。
本能寺襲撃時に斎藤利三が、「いつものようにくぐり戸は

開いているだろう。とびらを押し開けよ。くぐり戸に幟(のぼり)や

指物(さしもの)がつっかえないように注意せよ。」と軍勢に注意を

与えたといわれていますが、事実かどうかはわかりません。

 

 

桂川を渡河し終えた明智軍が京都に侵入したのは午前三時頃、
千本七条からだとされています。ここから幾手かにわかれ、

複数の筋をとって北進し、四条坊門西洞院(しじょうぼうもん

にしのとういん=四条坊門小路と西洞院大路の交差したところ)の

西南角に位置する本能寺へと押し寄せました。千本七条に到着した

四時間後ぐらいだとされます。

 

 

当時の本能寺は、現在の本能寺とは違う場所に位置していました。
当時は、北は六角通、南は錦通、東は西洞通、西は油小路通に
囲まれた、二町四方(東西約140メートル、南北約270メートル)の
地域内にありました。近年の発掘調査によって、西洞通大路に沿って
幅約4メートル以上、深さ約1.5メートル以上の堀があったことが
明らかにされています。このことから、本能寺が下京惣構の一角を
担っていたことがわかります。

 

 


※明智軍が本当に桂川を渡り本能寺を襲撃したのかどうか、わたしは
事実ではないと考えていますが、拙ブログでは検証のため通説を
ご紹介しています。

 

 

つづく