斎藤一に逢えた日 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

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先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

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もう多くの皆さんがご存知でしょうが、7月15日、元新選組隊士

斎藤一こと藤田五郎の写真が発見されたニュース発表がありました。

 

まさかの大ニュースでした。

晩年、口元に白鬚を蓄え、お顔があまり鮮明でない集合写真一枚しか

本人の写真は残っていないと思われていましたので、

いきなりの衝撃でした。

しかもとびきりの男前!!

この人を、副長がまるで私設秘書かSPのように好んで連れ回して

いたのかと思うと、副長に嫉妬してしまいます。

 

 

藤田五郎と家族の写真が撮影されのは、本郷四丁目の

中黒實写真館。

藤田が住んでいた町にあった写真館です。

撮影されたのは明治30年(1897)。明治24年に警視庁を退職した

藤田が次の勤務先、高等師範学校(現筑波大学)に

勤めていた当時です。

この明治30年の3月と12月の二回、藤田は「職務勉励ニ付」報奨金を

授与されています。

幕末~西南戦争の動乱期をつねに死線に立ち続けた藤田は、

その後家庭を持って堅実に働き、晩年は穏やかに過ごせたようです。

 

 

斎藤一(藤田五郎)については故赤間倭子氏がその研究の先駆者で、

斎藤一についての著作をいくつも出されています。

そこに書かれていたことが長年信じられ、斎藤一といえば赤間氏と

いうことで、出典が示されていない話でもあまり追及されることなく

信じられてきた経緯があります。

 

近年ようやく赤間氏の呪縛(?)から逃れ、斎藤一について言われて

きたことが見直されてきているようです。

赤間氏は功績も残されていますが、無批判に信じることなく、冷静に

功罪を検証することが大事です。

 

わたしが一番気になっているのは、赤間氏が藤田家御子孫から

譲られたという藤田五郎が所有していた羽織の行方です。

赤間氏が亡くなったあと、資料類が散逸しているとの

情報も耳にしました。

羽織はどこでどうなっているのでしょう。

わたしが知らないだけで、ちゃんと関係者が保管されているとは

思うんですが…。

 

 

 

 

ペタしてね

どくしゃになってね…