シーボルトの大展覧会はじまる | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

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先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

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現在、千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館で、素敵な展覧会が

開催中です。

 

「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」

 

江戸期の日本を訪れたドイツ人医師・博物学者の

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト。
没後150年を記念したこの展覧会は、シーボルトが亡くなる直前に

ミュンヘンで開いた「日本博物館」の再現を試みる

展示となっています。

 

 

オランダ商館付きの医師として来日したシーボルトは医師としての

職務の他に、日本の自然を調査する任務を負っていたそうです。
スパイの嫌疑もかけられましたよね。
シーボルトは精力的に博物収集し、自然観察記録を残しました。
自然の産物だけでなく日本の工芸品、民芸品も多数集め、

ヨーロッパに帰国後それらのコレクションを展示公開したり、

日本に関する記録を著作として著すなどしています。

日本に里帰りしたコレクション約300点が展示されているこの

展覧会は、来年にかけて東京・長崎・名古屋・大阪と

巡回予定です。


シーボルトに限らず当時の医師は、医学以外にも科学・工学・

芸術・語学・兵学と、博物学的にあらゆる知識が求められました。
三宅艮斎(ごんさい)・秀(ひいず)父子も、そんな当時の

知識人でした。
艮斎は鉱物収集を趣味の一つとしていて、数百種に及ぶ鉱物を

集めて標本を作っていました。
以前こちらの記事に書きましたが、艮斎は江戸参府にやって来た

シーボルトに鉱物標本を鑑定依頼するつもりで見せたところ、

ヨーロッパに持ち帰られてしまいました。
艮斎は幾度も返還を要求しましたが埒があきませんでした。

 

 

文久3年(1863)、シーボルトは幕府が派遣した遣欧使節団の

対仏交渉に協力しています。使節団の随行員としてパリに来ていた

三宅秀は、父にかわってシーボルトに標本の返還を要求しましたが、

結局返ってきたのはあまり重要でないごく一部の鉱物だけで、

ほとんどは返されることはありませんでした。

以後現在に至るまで標本は行方不明となっています。

 

 

今回の展覧会の出品物は、シーボルトゆかりのドイツの古城に

眠っていたものも含まれていたそうです。
さて、艮斎の鉱物標本はいったいどこに?…というのがわたしの

最も気になるところです。

 

 

テレビでこの展覧会が紹介されている番組を見ました。

漆器や藁細工、遠眼鏡など、どれもこれも大名道具のように美しい

ものや、素朴ながらも丁寧なつくりの道具ばかりで、まさに眼の驚異!

ヴンダーカンマー的な驚きに満ちた展覧会のようです。
これは絶対に行かなくては!

 

 

ヴンダーカンマー的展示といえば、東京大学の西野嘉章教授の

著書などでご存じの方もおられるでしょう。

以前東京大学総合研究博物館で「驚異の小部屋」という展示が

ありましたが、この春、眞子内親王殿下が東大総合研究博物館の

特任研究員、そしてインターメディアテクの客員研究員に

就任されたそうです。
インターメディアクには三宅コレクションが常設展示されているので、

眞子殿下もきっとご覧になっているんですね~。
末端子孫として光栄の極みです。

 

 

 

 

 

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