本能寺の変 その時光秀は… 20 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

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※「光秀冤罪説を考える」シリーズの記事をはじめて
 お読みくださる方は、まずこちらの「はじめに。」から
 お読みください。

 

 

 

 

天正10年6月1日。
『川角太閤記』には、森乱(乱丸)から光秀のもとに飛脚があり、信長が

光秀の軍勢の様子を見たいと仰せなので、軍勢を整えて

上洛せよとの指示があったという話が載せられています。
この話のでどころは光秀に仕えていた家臣二名ですが、二人とも

森乱からの飛脚の内容を知る立場にあったような重臣では

ありませんでした。
しかし、信長から光秀に上洛の指示があったという話が、

複数の史料に見えます。
といってもそれらの情報のでどころは不明ですので信憑性は

一概に判断できません。

 

 

『老人雑話』(江村専斎による後世の聞き書き)、

『日本史』(ルイス・フロイス)、『当代記』(寛永年間に成立したとされる

史書)にも、光秀の上洛の目的は、信長に軍勢を見せるためだったと

書かれています。
これらに共通して書かれている上洛指示ですが、それぞれ別々の

情報源からもってきた話なのか、それとも一つの情報源から出た

話があちこちに広まっていったため、複数のところに同じ話が

記録されたのか。

 

 

ところが『信長公記』には、信長からの上洛指示のことなどまったく

書かれていません。
明智軍は亀山から北上して三草越え(丹波の篠山盆地を経由して、

播磨国加東郡・社町を越え、姫路方面に向かうルート)をして中国へ

向かうつもりだったが、いったんここを引き返し、東に方向を変え、

老の山へ上り、山崎に出て西国街道から摂津方面に向かうという

ことを、あらためて陣触れしたと書かれています。
軍勢は老の山へ上り、そこから右方向の摂津街道へは向かわず、

左へ下り、京都方面への道をとり、桂川を越えたとあります。
軍勢には摂津へ行くという指示が出ていただけで、京都へ向かう

指示があったとは書かれていません。

 

 

本能寺で信長を討ったのが光秀だとされているため、信長からの

上洛指示を受けた光秀は、これ幸いと利用して合法的に軍勢を

引き連れて、本能寺を襲ったとされています。

ですが、本当に上洛指示があったとして、光秀は謀反をおこす

つもりなどなく、ただ指示に従い本能寺に出頭しただけだと

考えることもできるのではないでしょうか。

 

 

さて、亀山出陣から本能寺襲撃までの様子を詳しく記したのが

『明智軍記』と『川角太閤記』です。

といってもこれらは一次資料ではないので、信憑性には疑問が

ありますが、他にこの日の光秀軍の様子を詳細に書いた史料が

ないので、一応引用しておきます。

 

 

酉の刻(午後六時頃)、明智軍が亀山の東の柴野(野条か)に

達したとき、光秀は軍勢を三段に編成した。そして家老の

斎藤利三に、兵の人数は何人ぐらいかと尋ねたところ、利三は

「一万三千は御座あるべしと見及び申し候」と答えた。

 

 

※本能寺を襲った光秀の軍勢が一万三千人ほどだったいわれて

いるのは、この記述からきています。

 

 

ここで光秀は軍勢から約150メートルほど離れた場所に、

女婿・明智秀満と四人の家老を集め、謀反の決意を

打ち明けています。
光秀は「一夜たりとも天下の思ひ出」を望み、重臣たちも光秀のことを

「明日から上様と呼びたい」と望み、天下を簒奪しようとの謀議が

成り立ったというのです。

 

 

光秀と重臣たちは、五里の道のりを急ぎ、「ほのぼの明け」には

本能寺を取り巻き、「五ツ」(午前八時頃)までには本能寺を

片づけようということになった。

 

 

『川角太閤記』によるとここから明智軍は、山陰道の山城と丹波の

国境にあたる老ノ坂を越えて、峠を下りた沓掛で小休止し、

兵士たちは腰兵糧を使って腹ごしらえをした、とあります。

前回の記事に記したように、『明智軍記』では、この時光秀は軍勢を

三隊に分けています。
一隊は明智秀満隊で、本道(山陰道)から大江坂(老ノ坂)を経て

桂川を渡りました。
もう一隊は明智次右衛門隊で、王子村から唐櫃越えをして、松尾山の

山田村に達したとされます。
残る一隊が光秀自身で、保津から山越えをし、水尾陵を経て嵯峨野に

至り、衣笠山の麓、地蔵院に布陣したとされます。

 

 

沓掛宿で小休止している時、光秀は天野源右衛門を呼び出して

「味方勢から本能寺に注進する者があるかもしれないから、そのような

卑しき者を見つけたら討ち捨てよ」と言い、先遣を命じたとあります。
先駆けした源右衛門が洛中への入り口である丹波口(七条口)に

さしかかったところ、夏の早朝だったので、東寺のあたりですでに畑に

出て瓜作りをしている農民たちがいた。農民たちは武装した

騎馬武者を見つけ驚き、とっさに逃げたところ、命令に忠実だった

源右衛門は彼らを追いかけ、二、三十人を斬り捨てたというのです。

実際にこんな虐殺話があったのなら、いかに戦国時代といえども

ひどい話であり、なんらかの記録、現地の古記録や伝承などに残って

いるのではないかと思うのですが、わたしの知る限りでは

そういう記録は、この『明智軍記』以外にはありません。

 

 

なお、この天野源右衛門は、信長を倒した張本人とされ、秀吉の

探索から逃れるために、安田作兵衛と改名したとされます。
明智家が滅んだ後も生き延びて、幾人かの主君に仕え、最後は

唐津藩・寺沢家に仕えました。

 

 

 

 

 

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