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※「光秀冤罪説を考える」シリーズの記事をはじめて
お読みくださる方は、まずこちらの「はじめに。」から
お読みください。
愛宕山で連歌会を開いた後の光秀の動きがわからないと、
読者様から御指摘を頂いたので、少し後戻りして光秀の動きを
追っておきます。
といっても光秀側からの史料はなく、情報のでどころの不明な史料に
載せられたものしかありませんので、事実かどうかはわかりません。
天正10年4月28日、百韻連歌を興行し、これを神前に納める。
次いで亀山に帰城する。『信長公記』
『明智軍記』には、亀山に帰城した光秀は病に臥せる嫡男・光慶を
見舞ったとあります。
愛宕百韻には光慶が詠んだ句が載せられています。
光秀と共に愛宕百韻で句を詠み一緒に亀山に帰ったはずの光慶が、
なぜか明智軍記では病で臥せっていたことになっています。
(ルイス・フロイスは坂本城落城の際に明智の二人の子が
亡くなったと記しており、そのうちの一人が光慶ではないかと
いう人もあります。)
光秀は亀山城で重臣を集め謀反を表明します。
謀反を打ち明けた重臣の名は信長公記によると、明智左馬助・
明智次右衛門・藤田伝五・斎藤内蔵佐。
明智軍記では比田帯刀・松田太郎左衛門・御枚三左衛門・
柴田源左衛門・池田織部・尾石与三・中沢豊後守、というように
信長公記とはまるで違っています。
重臣たちは(光秀謀反の決意を聞き)地に頭を付け喜んだ。
光秀が各地に放っていた目付により6月29日、信長・信忠親子が
上洛した情報がもたらされた。
光秀は一万七百騎余りの兵を集め、翌6月1日、中国へ向かうと
称して出発した。申ノ刻(午後四時頃)、日向守(光秀)は能条畑に
打ち出て水色の旗を立て、軍勢を三手に分けた。(それぞれ
明智左馬助・明智治右衛門・明智十郎左衛門が率いた)
光秀自身は明智十郎左衛門隊と共に午後六時頃、保津(亀岡から
京都嵐山に至る保津峡)の宿から山中に至り、水尾の陵(清和天皇の
水尾山陵、京都市・嵯峨)から尾根伝いに嵯峨野に出て、衣笠山の
麓の地蔵院(西京区、衣笠山えりゅうざん地蔵院)に着陣した。
『明智軍記』
6月1日夜に入り、亀山城にて光秀は重臣に謀反を打ち明け、
明智左馬助・明智次右衛門・藤田伝五・斎藤内蔵佐らと談合し、
信長を討ち果たし天下の主となるべき計画を立てた。亀山より
中国へは三草越え(兵庫県加東市・三草山を越えるルート)で
むかうのが普通だが、光秀はそこへは向かわず馬首を
東に向けた。
「老の山(京都・老ノ坂)へ上り、山崎(京都府・大山崎町)を廻って
摂津の地へ進軍する。」と兵たちには触れおき、先に相談した
重臣たちに先陣を命じた。
6月1日夜、軍勢は老の山へ上った。右へ行く道は山崎~摂津街道、
左へ下れば京都へ出る道である。ここ左へ下り、桂川を越えたところで
ようやく夜も明け方になった。『信長公記』
この後も明智軍記には、他の史料にはなく明智軍記にしか
載っていないやたらと詳しい記述が続きます。