本能寺の変 その時光秀は… 18 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

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※「光秀冤罪説を考える」シリーズの記事をはじめて
 お読みくださる方は、まずこちらの「はじめに。」から
 お読みください。

 

 

 

 

「本城惣右衛門覚書」(ほんじょうそうえもんおぼえがき)という
史料があります。
本城惣右衛門みずからが語ったところによると、若い頃は丹波で
強盗ばかりしていたという身分の低い出自不明の人物で、
その後丹波の赤井氏に仕え、光秀により丹波が平定された後は
光秀軍に加わっています。
この本城惣右衛門が晩年の寛永17年(1640)年、80代か90代頃に、
若い頃の事を思い出して書き残したとされているものが
本城惣右衛門覚書です。
一応自筆とされていますが、代筆の可能性も指摘されており、
またこの本城惣右衛門覚書は収集家が購入したものなのですが、
出所が不明という問題のある史料です。
現在は収集家の手を離れ、天理図書館の蔵書となっており、
全文が公開されています。
真偽が確実ではないという大きな問題はあるものの、光秀軍の
一員として本能寺襲撃に加わった当事者による、唯一の
一次資料として、貴重なものとされています。

 

 

 


あけちむほんいたし、のぶながさまニはらめさせ申候時、
ほんのふ寺へ我等よりさきへはい入申候などゝいふ人候ハゞ、
それハミなうそにて候ハんと存候。其ゆへハ、のぶながさまニ
はらさせ申事ハ、ゆめともしり不申候。其折ふし、たいこさま
びつちうニ、てるもと殿御とり相ニて御入候。それへ、すけニ、
あけちこし申候由申候。山さきのかたへとこゝろざし候へバ、
おもひのほか、京へと申候。我等ハ、其折ふし、いへやすさま
御じやうらくにて候まゝ、いゑやすさまとばかり存候。ほんのふ寺と
いふところもしり不申候。人しゆの中より、馬のり二人いで申候。
たれぞと存候へバ、さいたうくら介殿しそく、こしやう共ニ二人、
ほんのぢのかたへのり被申候あいだ、我等其あとニつき、

かたはらまちへ入申候。それ二人ハきたのかたへこし申候。

我等ハミなみほりきわへ、ひがしむきニ参候。ほん道へ出申候。

其はしのきわニ、人一人い申候を、其まゝ我等くびとり申候。

それより内へ入候へバ、もんハひらいて、ねずミほどなる物なく

候つる。其くびもち候て、内へ入申候。
さだめて、弥平次殿ほろの衆二人、きたのかたよりはい入、くびハ
うちすてと申候まゝ、だうの下へなげ入、をもてへはいり候へバ、
ひろまニも一人も人なく候。かやばかりつり候て、人なく候つる。
くりのかたより、さげがミいたし、しろききる物き候て、我等女一人
とらへ申候へバ、さむらいハ一人もなく候。うへさましろききる物
めし候ハん由、申候へ共、のぶながさまとハ不存候。其女、さいとう
蔵介殿へわたし申候。ねすミもい不申候つる。御ほうかうの衆ハ、
はかま・かたぎぬにて、もゝだちとり、二、三人だうのうちへ入申候。
そこにてくび又一ツとり申候。其物ハ、一人おくのまより出、
おびもとりミいたし不申、刀ぬき、あさぎかたびらにて出申候。
其折ふしハ、もはや人かず入申候。それヲミ、くずれ申候。
我等ハかやつり申候かげへはいり候へバ、かの物いで、すぎ候まゝ、
うしろよりきり申候。其時、共ニくび以上二ツとり申候。
ほうびとして、やりくれ被申候。のゝ口さい太郎坊ニい申候。

 

 

 


本城惣右衛門覚書に書かれた本能寺の変の記録は、他の、たとえば
信長公記に書かれたような記録とは違い、本能寺という現場において
奇妙な静けさを感じます。
この本城惣右衛門覚書、いくつも気になる点があります。

まず一つ目。


「秀吉が備中で毛利輝元と対している時、光秀が秀吉を助けにいく
ことになった。
山崎方面へ進むのかと思っていたら、思いの外、京へ行くと

指示された。
その頃、家康が上洛していたので家康だとばかり思っていた。」

 

 

この箇所、読む人により解釈が分かれるところではありますが、

実際本城惣右衛門はどう思っていたのでしょうか。

 

家康のところに行くと思っていたというのは、毛利ではなく家康を

倒しに行くと思っていたのか、それとも家康が少人数の家臣しか

連れてきていないので、気を遣った信長が光秀に命じて

家康警護のために向かわせるとでも思ったのか。

はたまた山崎方面から京へといきなり方向転換することになり、

戸惑った足軽たちの間で誰かが、「家康が来てるから家康のところに

いくんじゃないか?」とでも口走ったことが周りに広まったのか。

光秀の作った「明智軍法」の第一条に、幹部や伝令以外の者が

大声を出したり、雑談することを禁じています。

禁じるということは、そういうことが過去にあったからだと

推し量ることができます。

この時うっかり軍法を忘れた足軽が言った軽口が一人歩きして

しまった結果、後世のわたしたちの頭を悩ませることになって

いるのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

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