本能寺の変 その時光秀は… 17 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

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※「光秀冤罪説を考える」シリーズの記事をはじめて
 お読みくださる方は、まずこちらの「はじめに。」から
 お読みください。

 

 

 

本能寺での信長の最期の様子が記録により違うことを前回
記事にしました。

 

 

寛永年間頃に成立した『三河物語』大久保忠教(彦左衛門)著には、
信長が「上之助(秋田城介=織田信忠)が別心か!」と叫んだと
記されています。
信長が自身の嫡男である信忠の謀反を疑ったというのです。
信忠は天正三年、信長より織田家の家督を譲られており、
連枝衆筆頭としての立場にありました。
わざわざ謀反を起こさなくとも織田家の次代として信長から認められて
いる信忠が疑われたというのは、一体どういうことなのでしょう。
単なる情報の混乱なのでしょうか。

 

 

これが外国人の記録になると、また違ったことが記されています。

 

 

 

信長は明智が自分を包囲している次第を知らされると、
何でも噂によると、口に指をあてて、余は余自ら死を招いたなと
言ったということである。

 

スペイン人貿易商人アビラ・ヒロン 『日本王国記』

 

 

日本側の記録には出てこない信長の様子が記されています。
アビラ・ヒロンがはじめて日本の土を踏んだのは1594年。
本能寺の変から12年も後のことです。そのせいか『日本王国記』には
誤解や、明らかに史実とは違う記述が多く見られます。
しかし信長に関する記述は、イエズス会士で明智ガラシャの入信を
取り計らったパードレ、グレゴリオ・デ・セスベデスから入手した
情報だとされています。
ですので一概に信憑性を判断することはできません。

天正十年当時、本能寺の近くに南蛮寺と呼ばれるカトリック教会が
建てられていました。
パードレ・セスペデスがアビラ・ヒロンに渡した情報は、
南蛮寺に出入りしていた日本人信徒らがもたらしたものだと
思われます。
アビラ・ヒロンの『日本王国記』は、信長に関する箇所以外は
アビラ・ヒロン自らが体験した豊臣・徳川期の日本について
記されています。
宣教師ではない、商人の目で見た記録は珍しく貴重なものです。
本能寺の変に関する信憑性はさておき、それ以外の日本と日本人に
関する生活や文化の描写は詳細で、資料的価値が高く

評価されています。

 

 

信長の最期に関して調べるほどにますます混乱してきました。

 

 

 

 

 

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