本能寺の変 その時光秀は… 16 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

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※「光秀冤罪説を考える」シリーズの記事をはじめて
 お読みくださる方は、まずこちらの「はじめに。」から
 お読みください。

 

 

光秀が愛宕百韻を開いたのが天正10年5月28日(24日説もあり)。
翌5月29日、信長上洛。
上洛の翌日の6月1日には、公家など大勢が本能寺の信長へ
挨拶に来ており、茶菓子を振る舞われ数刻歓談しています。
この日の夜は信長の御前で、本因坊算砂と林利玄(諸説あり)という
僧侶同士による囲碁の対局が行われました。
この対局で極めてマレな三劫(さんこう)が出現し、その数時間後
信長が討たれたことで、三劫は不吉だと云われるようになったという
話があります。
ですが、どうやらこれは後世の作り話の可能性が高いようです。

 

 

この日の夜にはもう一つ伝説が生まれました。
唐銅香炉「三足の蛙」唐から渡ってきたと伝わる
「みつあしのかえる」という香炉があります。
その名のとおり、三本足の蛙の形をした可愛らしい香炉です。
三足の蛙というのは、青蛙神(せいあじん)という中国の霊獣で、
天災を予知するといわれ、縁起の良いものとされます。
この三足蛙をかたどった香炉が6月1日の夜、信長の異変を
察して鳴き出したというのです。
この蛙の香炉は、本能寺の宝物館で見ることができます。

 

 

本能寺の変という大事件は大勢の人間が記録し、記録により違いが
あります。
そして、三劫や三足蛙などの伝説のような話も生まれています。
それだけ衝撃的な大事件だったということなのでしょう。

 

 

 

 

明智勢は鬨(とき)の声を上げ、御殿へ鉄砲を撃ち込んできた。
信長が「さては謀反だな、誰のしわざか」と問いただすと、
森長定(森乱丸)が「明智の軍勢と見受けます」と答えた。
信長は「是非に及ばず」と一言。
お小姓衆は、敵勢に打ち掛かり打ち掛かりして討ち死にした。
信長は、初めは弓をとり、二つ三つと取り替えて弓矢で防戦したが、
どの弓も時がたつと弦(つる)が切れた。
その後は槍で戦ったが、肘に槍傷を受けて退いた。
それまで傍らに女房衆が付き添っていたが、「女たちはもうよい、
急いで脱出せよ」と言って退去させた。
すでに御殿は火をかけられ、近くまで燃えてきた。
信長は、敵に最期の姿を見せてはならぬと思ったのか、御殿の
奥深くへ入り、内側から納戸の戸を閉めて、無念にも切腹した。
太田牛一 『信長公記』

 

 

二日。天晴。まだ就寝していなかったところに、袖岡越中
(景久、朝廷の地下官人)がやって来て、信長がいた本能寺を
明智光秀が攻め、焼討ちにしたと伝えた。
私はそのまま外出し、二条御所へ参ろうとしたところ、早くも
軍勢が取り巻き、立ち入ることができなかった。
勧修寺晴豊 『日々記』(にちにちき)

 

 

二日。明け方、丹波から惟任日向守(光秀)が、信長の御屋敷

本能寺に取りかかり、即座に信長を殺した。
吉田兼見 『兼見卿記 別本』

 

 

卯の刻(午前6時の前後2時間頃)、本能寺へ明智日向守が押し寄せ
謀反を起こし、即時に前右府(信長)を討った。
三位中将(織田信忠)は妙覚寺を出て下御所(誠仁親王御所・

二条御所)へ籠もったが、(明智日向守が)押し寄せ、

後刻討ち死にした。
(中略)言語道断のていたらく、京洛中騒動、是非に及ばずおわりぬ。
山科言経 『言経卿記』

 

 

(光秀が)にわかに丹波より軍平を召し寄せ、六月二日の明け方、
本能寺へ押し寄せ、鯨波(鬨の声)を上げたところ、信長公は
森乱丸を呼んで「信忠(信長の嫡男)が逆心か」と問えば、
森乱は走り出て様子を見に行き、「明智日向守が謀反かと

思われます」と申したところ、(信長は)「是非に及ばず」と言い、

手槍を取って戦い、右の脇を負傷し、槍を捨てて(御殿の)内に入り、
炎の中に入り焼け死んだ。
土岐定明家臣・森秀利(?) 『明智物語』

 

 

京都にて、上様に明智日向守と織田七兵衛(津田信澄)が謀叛を

起こし、(上様)を生害した。
松平家忠 『家忠日記』 6月3日の項

 

 

 

勧修寺晴豊、吉田兼見、山科言経といった京都の比較的本能寺に
近い場所でリアルタイムに近い体験をした者の記録では、光秀が
信長を討ったというシンプルな記述で終わっています。
事件勃発直後に取れた情報だけを記しているというリアリティが
感じられます。
これが信長公記や明智物語という、時間を置いて書かれたものに

なると、一気に物語り調の記録になっています。
明智物語などは信長公記を読んだ人間が書いたのでしょうか、
影響が感じられますが、信長公記にもない情報である信忠が謀叛を
起こしたのかと信長が疑ったという記述が混じってきています。

家忠日記には、津田信澄が謀反に荷担していたということが
載せられており、京都や大坂での混乱した状況の中で、光秀の
女婿であり実父を信長に粛清された津田信澄が荷担していたという
情報の混乱が見られます。

 

 

 

 

 

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