本能寺の変 その時光秀は… 15 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

※人気ブログランキングに参加しています。
よろしければバナーをクリックお願いいたします。

 

 


人気ブログランキングへ

 

 

※「光秀冤罪説を考える」シリーズの記事をはじめて
 お読みくださる方は、まずこちらの「はじめに。」から
 お読みください。

 

 

 

 

天正10年5月は、29日が晦日でした。

信長公記以外の、この日の信長関連の記録を見てみます。

 

 

 

廿九日、丙戌、 下米、
一、前右府御上洛了、
  『言経卿記』

 

 

廿九日、丙戌、 信長御上洛爲御迎、至山科罷出、數刻相待、
自午刻雨降、申刻御上洛、御迎各無用之由、先へ御乱

(森成利=森乱)案内候(之カ)間、急罷帰了、    『兼見卿記 正本』

 

 

廿九日、丙戌、 信長御上洛爲御迎、召具侍從至山科罷出、
雨降、未刻御上洛、御迎衆各可罷帰之由先ニ御案内之間、

即急罷帰畢、    『兼見卿記 別本』

 

 

信長公一昨日廿八日(29日の間違い)上洛云々、    『多聞院日記』

 

 

 

 

※『言経卿記』の「下米」とは天候を表す言葉らしいのですが、
詳しいことは知りません。
どなたかご教示いただけると助かります。

 

 

「前右府」サキノウフというのは、この頃の信長を指す言い方です。
信長は天正5年(1577)~翌年まで右大臣兼右近衛大将の地位に
ありましたが、天正6年(1578)、右大臣・右近衛大将の両官を辞任
します。それ以降、前の右府様と呼ばれるようになりました。

 

 

『兼見卿記』の「正本」と「別本」について。
京都・吉田山の吉田神社神主で吉田神道宗家の吉田兼見

(旧名は吉田兼和)が記した日記が『兼見卿記』と

呼ばれるものです。
天正10年分だけが、正月から本能寺の変のおこった六月までの

記述が書き換えられて「正本」とされました。

こちらが表向きのものです。
最初に書かれたものも破棄されることはなく「別本」として

残されています。

「別本」には光秀と親しく付き合っていたこと、特に本能寺の変に

関するあたりの行動が書き換えられていて、兼見が本能寺の変の

何事かに関わっているのではないかと推測することもできます。

 

 

『多聞院日記』とは、奈良・興福寺の塔頭多聞院の僧侶らが、

三代140年にわたり書き継がれた日記です。
信長の京都時代の筆者は英俊という人で、興福寺衆徒から

大名となった筒井順慶についての詳細な記述が載せられて

いるなど、この時代を研究する貴重な資料の一つです。

 

 

 

 

…と、5月29日についての同時代の記録は比較的簡単なものが

多いなか、後世に成立した二次資料である『明智軍記』には、

このあたりのことがやけに事細かく書かれています。

 

 

去程ニ、信長公諸将ニ下知シ玉ヒケルハ、中国ヘ向フニ付、

各用意ノタメ御暇下サルヽノ間、来ル六月五日・六日比ニ京都へ

令参上ベシトゾ仰出サレケル。偖、御自身ハ、湯浅甚介・森蘭丸・

金森義入斎ナド近習ノ人々二百騎計ヲ召具セラレ、上洛御坐テ、

四条西洞院本能寺ニ著御セラル。城介殿ハ、斉藤新五・毛利新介・

菅谷九右衛門・福富平左衛門・団平八ヲ先トシテ、三百余騎ヲ

引卒シ、岐阜ヨリ上京有テ、二条ノ城郭へ入り玉フ。

信忠卿ノ御舎弟織田源三郎勝長ハ、津田又十郎・同勘七以下ノ

一族達ヲ催シ、尾州犬山ノ居城ヲ立テ、同ク京著シ、妙覚寺ニ

寄宿セラレ、諸将ノ参向ヲゾ待レケル。    『明智軍記』

 

 

ここで森成利(乱丸)のことを蘭丸としているのが、いかにも軍記物、
創作物らしさの現れているところです。

 

 

 

 

ペタしてね

どくしゃになってね…