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※「光秀冤罪説を考える」シリーズの記事をはじめて
お読みくださる方は、まずこちら
の「はじめに。」から
お読みください。
以前こちら の記事で、光秀が謀反を打ち明けた家臣に
ついて書きました。
太田牛一『信長公記』には溝尾勝兵衛の名前がなくて、
川角太閤記には溝尾勝兵衛の名前があると書きましたが、
補筆訂正いたします。
桐野作人氏の『真説 本能寺』を読み返したところ、上記の
件について詳しくまとめられていました。
その前にまず太田牛一の『信長公記』についてですが、
これは牛一の自筆本といわれるものや写本を含めると、
20種類以上残っているそうです。
信長の幼少期から足利義昭を擁しての上洛までを首巻とし、
以後、上洛した永禄11年から天正10年信長没までの15年を、
一年一冊として計15冊にまとめられています。
表題も『信長公記』『信長記』『永禄十一年記』など様々です。
信長に仕えた牛一が折にふれ書き残していた信長に関する
メモのようなものを切り張りして、信長の一代記としてまとめた
ものだとされ、原本は江戸時代初期に成立したと
みられています。
亀山城において光秀が謀反を家臣に打ち明けたとされる
話の出典は、牛一の信長公記以外にも複数あります。
それらについての桐野氏の調査をもとに以下に記します。
(※の注意書きはミケ秀による)
a=打ち明けたメンバー b=打ち明けた時期と場所
①『信長公記』陽明本
(※近衛家の古文書や美術品等を保管する陽明文庫に
牛一自筆本の忠実な写しが伝わっており、陽明本と
呼ばれています。)
a 「明智左馬助・明智次右衛門・藤田伝五・斎藤内蔵佐」
b 「六月朔日(ついたち)夜に入り、丹波国亀山にて」
② 『原本信長記』池田家本
(※岡山池田家に伝わる牛一自筆本)
a ①の四人に後筆で、三澤昌兵衛「溝尾勝兵衛」を
付け加える
b ①に同じ
③ 『当代記』
(※小瀬甫庵の信長記をもとに再編纂したものが載せられた
二次資料)
a 「明知(ママ)左馬介(ママ)、同次右門(ママ)、藤田伝五、
斎藤内蔵助、溝尾勝兵衛」
b 「六月朔日」「彼(か)の五人の者起請文をかゝせ人質を取り」
「戌刻(午前八時頃)亀山を立ち大江山を越す」
④ 甫庵『信長記』
a 「明智左馬助、同次右衛門尉、藤田伝五、斎藤内蔵助、
溝尾勝兵衛尉等」
b 「六月朔日」「亀山城」「午王の裏に霊社の起請文をと、
好んで当座に是を書かせ則(すなわ)ち人質を取り固め」
⑤ 『織田軍記』
(※別名、総見記、織田治世記。遠山信春という人が
小瀬甫庵の『信長記』を読んで、これをさらに考証したもの。
資料的価値は低いが、他書に見られない記述が一部ある。
他書に見られない記述があるという点は、『明智軍記』や
『武功夜話』に共通しています。)
a 「明智左馬助、同次右衛門尉、藤田伝五、斎藤内蔵助、
溝尾庄兵衛等」
b 「六月朔日の夜」「丹州亀山の城にて反逆を企て」
「五臣誓書を認(したた)め、この旨相違すべからざる由、
一同に請負ひ、人質を献じ畢(おわ)んぬ」
⑥ 『日本史』
(※イエズス会宣教師・ルイス・フロイスが著した編年体の
歴史書)
a 「もっとも信頼していた腹心の部下の中から四名の
指揮官を選び」
b 「聖体の祝日の後の水曜日の夜(六月一日)、同城
(亀山城)に軍勢が集結していたとき」
⑦ 『日本年報』
(※来日したイエズス会士により毎年作成された
ヨーロッパへの報告書)
a 「四人の武将」
b 「聖体の祝日の次週の火曜日(五月二十九日)、軍隊が
城内(亀山城)に集った時」
⑧ 『川角太閤記』
a 「五人の者ども」とし、明智左馬助・同次郎左衛門・
藤田伝五・斎藤内蔵助・溝尾少兵衛を『信長記』
(甫庵筆か?)から挙げる。
b 六月一日酉の刻(午後六時頃)前後、「亀山の東の柴野」
(野条か)あたりで、光秀が軍勢を一町半離れ、明智弥平次に
五人の老臣を集めさせ、打ち明ける。
⑨ 『家忠日記増補追加』
(※松平家忠=深溝松平家第4代当主)
a 「明智左馬助・内(ママ)藤内蔵助・溝尾勝兵衛尉等」
b 「六月大一日、明智日向守光秀亀山の城に在(あり)て」
以上によれば、光秀が謀反を打ち明けたとされるメンバーは
⑨の三人が最小。
②の池田家本より先に書かれたとみられる①牛一の
信長公記、それに⑥⑦のイエズス会関係資料には
溝尾勝兵衛の名はない。
後から付け加えたとされる②の牛一・原本信長記と、
信長公記を元にした③④⑤⑧⑨の二次資料には
溝尾勝兵衛の名がある。…ということになります。
牛一は、本能寺の変を生き延びた女衆や関係者たちを
取材して信長公記(信長記)を書いたという話が
伝わっています。
しかし光秀が本能寺へむけて出発したとされる亀山城での
話の取材元を含め、情報源の詳細については不明です。
牛一が最初集めてきた話の中には溝尾勝兵衛の名は
なくて、後から追加取材した中に溝尾勝兵衛の名が
出てきたということなのでしょうか。
日本人が記したものとイエズス会の人間が記したものとに
差異があることも注目に値します。
亀山城の光秀に関してだけではなく、本能寺での信長最後に
関する話にも、牛一が記した話と外国人が報告した話とでは
違いがみられます。
次回はその違いについて書いてみることにします。