本能寺の変 その時光秀は… 12 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

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※「光秀冤罪説を考える」シリーズの記事をはじめて
お読みくださる方は、まずこちら の「はじめに。」から
お読みください。


天正10年5月28日、光秀は西国出陣の前に愛宕山に参籠し、
後に愛宕百韻と呼ばれることになる連歌会を催しました。
連歌会では、まず最初に主賓が挨拶として一句詠みます。
これを発句(ほっく)といいます。
愛宕百韻での発句は、有名な

「ときは今 天(あめ)が下しる五月哉(さつきかな)」の句です。
この句は多くの人により様々な解釈がなされています。
直後に起こった本能寺の変と結びつけられて、光秀が

信長打倒の決意を詠み込んだものだと解釈する人も

多くあります。
「ときは今」の「とき」というのが光秀の出自である土岐一族の
ことだとし、土岐の一族である自分が天下を治めるべき

季節の五月になった…という解釈が広まっています。



近年ではまた違った説も提出されています。
連歌全般がそうであるように、愛宕百韻も『平家物語』『増鏡』
『太平記』など、和漢の古典からの情景や心情が

取り入れられています。
愛宕百韻を考えるにはこれら史文学について考慮しなければ

ならない、これらに共通しているのは平氏打倒という

主題であり、源氏の末裔である光秀が、平氏末裔を自称する

信長に対して源平交代思想を示そうとした現れである…

という説です。



これらの光秀決意表明説とでも呼べる解釈は、どれも

本能寺の変を引き起こしたのが光秀であることを前提にした

解釈です。
政治的意図が含まれた句であると解釈するのは、そういう

見方をしようと思えばできるという程度のものです。
愛宕百韻のすべての句を見てみると、本能寺の変が

起こっていなければ政治的な解釈などなされることが

ないような、全体に王朝文化の雅(みやび)な香りが漂う

百韻となっています。
最近では、わざわざ謀反を起こすことを周囲に示すような句を
出すはずがないという意見も多く見られます。



「ときは今」に関しては、「しる」の箇所の解釈が昔から問題に
なっています。
愛宕百韻の懐紙原本は寛政年間に焼失しています。
写本がいくつかあり、「天が下しる」と書かれたものと、
「天が下なる」と書かれたものとの二種類あるそうです。
「下しる」だと、土岐一族の時代がきたことを天下に知らしめる
という強い意図が含まれていると読むことができます。
これが「下なる」だった場合、意味が希釈されて、単に
「五月の雨が降っている」という光景を歌ったものと

なるそうです。
この「しる」「なる」、一字違いが生じたいきさつについて
逸話が伝わりますが、逸話程度のものであり、一次資料では
ないので信憑性は低いです。



『常山紀談』によると…
山崎合戦の後に秀吉が愛宕百韻のことを知り、
参加者だったうちの一人、里村紹巴(さとむらじょうは)を

呼び出し、「天が下しるというのは、光秀が天下人に

なろうとする決意表明ではないか。おまえはそれを

知らなかったのか」と問いつめました。
紹巴は「それは下しるではなく、下なるでした。」と答え、
ならば証拠を見せよと秀吉が迫りました。
愛宕山に奉納された懐紙を紹巴が取り寄せ秀吉に

見せたところ、「天が下しる」と書かれてありました。
紹巴が涙ながらに「ここをよくご覧ください。懐紙を削って
『下なる』を消して『下しる』と書きかえてあります。」というので
よく見ると、果たしてそのとおり、懐紙には削った跡が

あったので、みな納得し、秀吉は紹巴を許しました。
ところがこれにはウラがあり、最初「下しる」と書いて

あったのを紹巴が西坊と示し合わせてその部分を削りとり、

その上からあらためて初めと同じく「下しる」と

書いたという話です。




もう一つ『備前老人物語』によると…
光秀の発句を書記役が吟じたとき、紹巴は「勿体ない。

『雨が下なる』としたほうがよい。」と言ったので、光秀は怒り、

紹巴を「けしからぬことをいう坊主め」と罵った。
しかし紹巴は臆せず「ただ『なる』とされたほうがよろしい。」と
言ったところ、書記が空気を読んで「あめが下なる」と吟じた。
…という話です。




『備前老人物語』はいかにも作り話めいた話です。
教養人として名を馳せた光秀が、連歌会という場で人を

罵るというのは考えられません。
しかも紹巴は愛宕百韻が行われる以前から光秀と親しく

付き合っており、光秀が細川藤孝に招かれて宮津を訪れ、

忠興・ガラシャ夫妻を交えて遊興した時にも、

茶人・津田宗及とともに紹巴を伴っていたほどです。
その紹巴にむかって「坊主め」と乱暴に罵るなどとは、まったく
光秀らしくありません。
ただし、本能寺の変において里村紹巴という人物は

なんらかの怪しい部分があるのではないかと、わたしは

疑っています。
『常山紀談』の、光秀が謀反の決意表明をしたというのは
疑わしい話ですが、愛宕百韻の懐紙を捏造したくだりは、

実際に紹巴がなんらかの動きをしたのではないかという気が

しなくもありません。
紹巴は光秀、藤孝、ともに親しく付き合っていたので、

今後調べていかなければならない人物の一人です。




愛宕百韻に参加した連衆は、光秀を入れて合計九人です。
以下が光秀以外の八人です。



紹巴       宗匠

行祐法印    愛宕西坊威徳院住持

宥源(ゆうげん)  愛宕上坊大善院住(大尊院)の修験僧?

猪苗代兼和(いなわしろけんじょ)  猪苗代家の連歌師、

兼載五代目

昌叱(しょうしつ) 紹巴門下・女婿

心前(しんぜん) 紹巴門下

東六郎行澄(ゆきずみ) 執筆、光秀家臣

明智光慶(みつよし) 光秀嫡男



百韻の始まりである発句を光秀が詠み、最後の揚句(あげく)
「国々は猶(なお)のどかなるところ」を光慶が詠みました。    
ほとんど記録のない光慶に関する貴重な記録です。





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