本能寺の変 その時光秀は… 11 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

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※「光秀冤罪説を考える」シリーズの記事をはじめて
お読みくださる方は、まずこちら の「はじめに。」から
お読みください。



久しぶりに本能寺の変検証に戻ってみようとしたら、
けっこうな時間が空いてしまっていて、どこまで進んで

いたのかわからなくなってしまいました。
というわけで、念のため、天正10年6月2日あたりの関係者の
行動をさらってみるところから再スタートしようと思います。
なんだか繰り返してばかりのようですが、どうぞお付き合い

ください。




まず、信長研究の基礎文献の筆頭『信長公記』に書かれた

ことをおさらいしてみます。



信長公記の本能寺の変に関する箇所ですが、信長大好きの

牛一が書いたにしては、意外にもとてもあっさりしています。
淡々と出来事だけが語られ、信長最後の場面も拍子抜け

するほどの短い記述となっています。
上様の死を激しく嘆いたり、光秀を糾弾するような記述は
見当たりません。





五月廿六日、惟任日向守、中国へ出陣として坂本を打立ち、
丹波亀山の居城に至つて参着。
次日、廿七日に亀山より愛宕山へ仏詣、一宿参籠致し、

惟任日向守心持御座候哉、神前へ参り、太郎坊の御前にて

二度三度迄籤を取りたる由申候。

廿八日、西坊にて連歌興行、




発句 惟任日向守、


ときは今あめが下知る五月哉 光秀

水上まさる庭のまつ山 西坊

花落つる流れの末を関とめて 紹巴



か様に百韵仕り、神前に籤置き、五月廿八日、丹波国

亀山へ帰城。




連歌について簡単にご説明します。
連歌とは、複数の作者(連衆)により連作されるのが

基本です。
五七五の長句と七七の短句を交互に詠み、合計句数が

百となる百韻が多く行われ、千句に及ぶ長大なものも

ありました。
戦国時代には連歌が必須の教養のひとつとされ、

連歌師という職業も生まれました。
連歌師は諸大名や有力者の間をまたぎ活動することから、

連歌会は情報収集の場ともなり、戦国武将や大名たちは

さかんに連歌会を開きました。
この時代、同様に茶会も多く開かれ、連歌の発句集と並んで
茶会の記録も戦国時代研究の参考文献となっています。





「太郎坊の御前」とは、愛宕山は神仏習合であり、本地仏が

勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)で、祭神(垂迹すいじゃく)が

愛宕権現太郎坊とされるので、勝軍地蔵のことを太郎坊と

呼んだことを意味します。
神仏習合は、日本古来の神道に密教、修験道、

民間信仰などが複雑に絡み合い融合したものです。
土着の天狗信仰とも結びつき、愛宕の山には天狗が

棲んでいるとされ、神として崇められていました。
日本各地には神とされるほどの大天狗がいくつも祀られ、

名前が付けられており、愛宕山の太郎坊、鞍馬山の

鞍馬天狗、富士山の太郎坊などが有名です。



太郎坊の御前で二度、三度とクジを引いたという記述を、

信長を討つことをためらった光秀が決行すべきか否か迷い、

佳いクジが出るまで何度も引いたのだ…という解釈を

する人がいます。
これは本能寺の変を引き起こしたのが光秀だということを

前提にした想像に過ぎません。
籤を引くという行為は物事の行く末を占う呪術的な

行為であり、二度、三度と繰り返し引くのは、作法の一つだと

考えられます。
連歌は和歌をもとに成立したもので、その起源は

古事記にまで遡ることができます。
言霊(ことだま)信仰について聞き覚えのある方は多いと

思いますが、古来から日本人は、歌を詠むことによって

災いを祓い、福を呼び込めると信じていました。
わたしの愛読書、小和田哲男氏の『呪術と占星の戦国史』

よれば、戦国時代には合戦前に連歌会を開き、その連歌を

神前に奉納して出陣すれば戦いに勝つという信仰が

あったそうです。
籤を引き連歌会を催したという光秀の愛宕山での行為を

考えるには、謀反をおこすかどうか迷ったのだという安易な

想像ではなく、当時の武将の行動原理を考えて解釈

すべきではないでしょうか。





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