島原・天草旅行記 11 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

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天草と島原でのすべての予定を終え、帰りのバスまで時間が

あったので、ガイドさんが崎津地区へと案内して

くださいました。



長崎県・端島、通称軍艦島が昨年世界遺産登録されました。
現在ユネスコの世界遺産暫定一覧表に「長崎の教会群と
キリスト教関連遺産」が登録されており、世界遺産登録を

めざしています。
平成24年「天草の崎津集落」がその「長崎の教会群」の

構成資産に選ばれています。
崎津集落とその背後に位置する今富集落は、

文化財保護法に基づく「重要文化的景観」としても

選定されています。




崎津・今富集落を含む天草下島南部は16世紀、イエズス会士
ルイス・デ・アルメイダにより布教がはじまりました。
海からせりあがった地面がすぐに山とつながった狭隘な

地域にあるのが崎津集落です。
海際には海岸線に沿ってへばりつくように家屋が建ち並び、
家屋と家屋の隙間の小路が海にむかって幾本も延びていて、
その小路はトウヤと呼ばれています。
家屋の海側にはカケと呼ばれる海に張り出したテラスの

ような露台が設えられて、トウヤに繋がっています。
カケは漁網の手入れや魚を干したりするのに使うそうです。
京都の鴨川に架けられる納涼床(ゆか)を思い出しました。
あちらは帯を流したようなゆるゆるとした川景色で、羊角湾に

面したカケとはまったく違う様子ですが、どちらも

涼しそうです。




崎津教会は明治以来3回立て直され、現在の教会は

昭和9年(1934)、フランス人宣教師ハルブ神父の時代、

長崎の建築家・鉄川与助により設計された

ゴシック様式の建物です。
内部はガラシャゆかりの宮津カトリック教会と同じで、珍しい

畳敷きになっています。
教会の建つ場所はハルブ神父のたっての望みで、

禁教時代に踏み絵の行われた吉田庄屋役宅跡が

選ばれました。

集落内の目立ちすぎるほど立派なランドマークとして建つ

崎津教会と、肩を寄せ合うようにしてひしめきあう小さな

家屋、海とカケに続くトウヤ。
それらは離れがたいような美しい景色ですが、この集落が
「長崎の教会群の構成資産」となっているのは、目に見える

美しさのためだけではありません。




カケから見た海側の景色







トウヤ






崎津教会









崎津教会の池




崎津・今富集落はキリシタン集落として禁教時代、人々は


地下に潜るようにして信仰を保ちました。
人々はキリシタンであることを隠し、表向きは今富地区に

位置する崎津諏訪神社に参拝したりしていました。
そういう時には、心中で「あんめんりうす=アーメン・デウス」と

唱え、また、マリア観音を拝むなどし、ヨーロッパの

キリスト教とは形を変えながらも信仰を続けました。
禁教が解かれたあと、諏訪神社から教会へ至る道は、

聖体行列の道として使われ、また諏訪神社の祭礼の場と

しても使われるなど、限られた空間の中で歴史と異教とが

折り重なっています。




崎津諏訪神社参道



諏訪神社参道脇に建つマリア像



明治となって禁教が解かれてからは、崎津地区の人々は

潜伏することをやめ、立派な教会を建て、ヨーロッパから

神父も迎えました。
しかし今富地区のキリシタンたちはカクレることを

選んだそうです。

崎津はかつては海路しか外と繋がる交通手段が

ありませんでした。
そのため天草・島原の乱の時にも崎津・今富の人々は乱から
疎外されたような形となり、島原のようにキリシタンが
全滅することなく、潜伏という形で明治を迎えました。

閉ざされた小さな場所に遠い外国から一つの異教が

布教され、それが短い期間の間に爆発的に広がり、やがて

禁教となるも隠れながら、信仰の形態が変わりながらも

命脈を保ち続ける。
数百年を経てのち復活し、ヨーロッパから神父が来て

再布教された人々と、カクレ続けた人々が隣り合わせに

暮らす場所。

この世にも珍しいといえば言葉が悪いかもしれませんが、
一つの宗教と、それを信仰するひとびとの辿った非常に

特異な歴史と形態が小さな一つの場所に残っていると

いうことが、構成資産に選ばれた大きな理由です。



崎津地区のキリシタン信仰の特徴は、ロザリオやメダイなどと

ともに、アワビやタイラギなどの貝殻を聖遺物としたことです。
聖ヤコブのシンボルであるホタテ貝にちなんでのことだという

説もあるそうです。
ルイス・デ・アルメイダはポルトガル人で、ポルトガルは

聖ヤコブ信仰がさかんな国ですので、その関係なのかも

しれません。



崎津の食堂でガイドさんに御馳走していただきました。

このボリュームで確か¥800ほど!




崎津集落を見学し終えバスセンターに向かう途中、

「天草コレジヨ館」にちらっと立ち寄りました。
あまり時間がなかったのでさらっと見学するだけでした。
1500年代のわずかの間、天草・河内浦に宣教師養成の

ためのコレジヨ(大神学校)が存在しました。
コレジヨには、教科書にも載っているかの有名な

天正遣欧少年使節がヨーロッパから持ち帰った

グーテンベルグ式金属活字印刷機が置かれ、
キリスト教関連書籍の他、イソップ物語、平家物語や

辞書なども印刷されました。
コレジヨ館には印刷機の複製品や西洋古楽器の

複製などが置かれています。
天草は他にもキリシタン関連施設や史跡が多数あるので、

次の機会にはそれらをゆっくり回ってみたくなりました。




わたしは昔の紀行文学を読むのが好きで、国内外問わず

色々と読んでいます。
ひょっとして、現実の旅行よりも地図と文学で妄想旅行する

方が好きかもしれません。
その中でも特にお気に入りのひとつが、明治時代に天草を

訪れた五人の文学者が連名で書いた『五足の靴』です。


明治40年(1907)夏。

与謝野寛、木下杢太郎、北原白秋、平野万里、吉井勇の

五人が九州各地を旅行し、その旅行記が五人の

匿名連載という形で同年8月から9月にかけて

「東京二六新聞」に掲載されました。
それまで天草というと、やはり天草・島原の乱の悲惨な

イメージだったのが、九州旅行のあとに発表された

北原白秋の『邪宗門』のおかげで南蛮趣味が文壇で

流行し、エキゾチックな南蛮文化、キリシタン文化の存在が

再発見されるきっかけになったそうです。








五足の靴文学碑



文学碑に続く、五人が通った道



五足の靴文学碑を見て、楽しかった天草・島原旅行もすべて
終わりました。

天草、島原、両方で素晴らしい方たちに案内していただき、
感謝に満ちた気持ちで帰りのバスに乗り込みました。
次はいつまた訪れることができるでしょうか。
世界遺産登録なった原城や崎津集落を訪れる日を夢見て

過ごします。




思いの外長くなってしまった島原・天草旅行記。
お読みいただきありがとうございました。





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