島原・天草旅行記 10 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

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最終日、芳證寺の次は三宅藤兵衛が番代(城代家老)を

務めた富岡城を訪れました。




慶長5年(1600)、この頃天草は小西行長により

治められていました。
行長は関ヶ原の戦いで西軍に属し、敗戦後斬首と

なりました。
東軍で功績のあった寺沢広高は肥前唐津、そして

小西行長の遺領天草を与えられました。
寺沢広高は唐津から離れた天草を治めるため天草・富岡の

地に慶長7年から築城を始め、慶長10年富岡城が

完成しました。



天草諸島は上島(かみしま)と下島(しもしま)を主島と

しています。
下島北西部から天草灘に突き出した砂州で結ばれた

陸繋島が富岡半島です。

その半島に富岡城は築かれました。
富岡城の東側には砂嘴(さし)と呼ばれるカギヅメ型の陸地が
突き出して、内側に巴湾を抱え込み、湾内には富岡港が

造られています。




寛永14年(1637)天草・島原の乱勃発。
当時富岡城代をしていた三宅藤兵衛は富岡城から出陣し、
本渡において一揆軍相手に戦い、討ち死にしました。
城代をなくした唐津藩勢は富岡城に籠城し、押し寄せた
一揆軍から城を守りました。
籠城の指揮を執ったのは原田伊予という人物です。
原田伊予の指揮のもと藤兵衛の遺児たちも籠城戦を戦い、
一揆軍を追い払い、落城を免れました。
乱が鎮まり寺沢家が断絶した後、藩士たちは浪人することと
なりましたが、原田伊予もその一人です。
原田伊予はその後会津藩士となったそうで、その人柄が

慕われて「原田伊予の会」というものが近代まで

存在したそうです。
現在どうなっているのかわかりませんので、ご存じの方は

ご一報ください。




富岡は、寺沢家が断絶した後富岡藩が立藩され、その後は
天領となり、天領時代に鈴木重成が代官として入りました。
重成が亡くなったあとは、養子となった甥の鈴木重辰が
代官職を継ぎ、さらにその後は戸田忠昌が藩主として入り
再び富岡藩となります。
戸田氏の時代、城の維持が領民の負担になるとして、
富岡城は破城されました。
廃城となった後は三の丸が残り、陣屋として使われました。



平成6年(1994)から城の発掘調査が行われ、

平成17年(2005)、復元工事が終了。
石垣や本丸の櫓、二の丸長屋等が復元され、

「富岡ビジターセンター」 という展示施設が

設けられています。
昨年平成27年には、二の丸長屋内に苓北町歴史資料館

(観光交流センター)が開館しました。



富岡城でおもしろかったのが石垣で、もともと残っていた

石垣の上に、本来あった石垣部分が復元されて

いるのですが、旧石垣と新石垣の間に薄い銅板を

入れてあります。
新旧を一目でわかるように、わざわざ入れてあるそうです。
銅板は傷みにくいので選ばれたそうで、最近復元された

各地の城の石垣には、こうした措置がほどこされている

ものが見受けられるそうです。








見えにくいですが銅板が巻かれています





わたしは富岡城は天守閣のない陣屋程度の小さな規模を
想像していましたが、意外に大きな規模だったので

驚きました。
後で聞いたところによると、幕府の目の届きにくい遠方では

大規模なものが建てられやすいのだそうです。
















苓北町歴史資料館では、館長さん自ら案内されていました。
この資料館の展示、管理を一人でされているそうです。
富岡城の歴史が詳しく解説されているので、富岡を訪れた

方はぜひ入館されることをお勧めします。
頂いた館長さんの名刺には、寺澤志摩守

(てらさわしまのかみ)と印刷されてありました。




富岡ビジターセンターでは、天草の歴史・自然・文化などが
紹介されています。
そこに勝海舟と榎本武揚の名前を見つけました。
安政3年(1856)、長崎海軍伝習所の訓練中の勝海舟は、

練習船・観光丸に乗り富岡を訪れました。
翌年にもまた富岡に来ています。この時の一行はお雇い教師
カッテンディーケ(後のオランダ海軍大臣)、五代友厚

(薩摩藩士。後に大阪経済界の重鎮)、そしてわが一族の

一人、榎本武揚(幕臣。「蝦夷共和国」総裁。外務大臣。)

という錚々たる御一行様です。
来た、というだけで富岡城内には勝の像まで建っています。

(勝の像の写真は撮り忘れました)




頼山陽像と鈴木兄弟像



鈴木兄弟






左・鈴木重成 右・鈴木正三




富岡城は風光明媚で、気持ちが晴れ晴れとするような

場所でした。
天草・島原の乱の厳しい時代の史料ばかり読んで、なんとなく

暗い景色を想像していたわたしは、目が覚めるような

心地でした。
やっぱり現場を訪れるのは大事なことです。














富岡城の次は、近くの瑞林寺を訪ねました。
わたしはこちらの存在は知らず、ガイドさんに教えて

いただいて初めて知りました。
瑞林寺には三宅藤兵衛の供養碑、鈴木重成の

供養碑があります。
天草はどこを訪れても鈴木重成を大切に祀っています。

瑞林寺の三宅藤兵衛供養碑は、藤兵衛の没後何回忌

(正確な年数をメモするのを忘れてしまいました)かに、

細川家が建てたものだそうです。
細川家と藤兵衛の深い繋がりが偲ばれます。



瑞林寺山門



瑞林寺本堂



瑞林寺 三宅藤兵衛供養碑
瑞林寺・三宅藤兵衛供養碑
瑞林寺 三宅藤兵衛供養碑




瑞林寺 鈴木重成供養碑

瑞林寺・鈴木重成供養碑




これでわたしの天草・島原でのお墓参りは終わりました。
残った時間、ガイドさんが素敵な場所を案内して

くださいました。
次回はその様子を書いて、旅行記の最終回とする

つもりです。
あと一回おつき合いください。





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