島原・天草旅行記 9 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

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芳證寺について書こうとしたら、すっかり長くなって

しまいました。




大坂の陣の豊臣方に参陣し、敗戦後切腹したとされる

細川興秋が生き延びて住んだ場所といわれるのが、

天草・御領村です。
御領村には16世紀頃、当時天草を支配していた氏族の

ひとつ志岐氏が築城したとされる御領城がありました。
興秋は御領城のすぐそばに長興寺薬師堂を開き、住職に

なっていたと伝わります。


その頃天草・御領村に赴任してきたのが、後に天草領民

たちから「鈴木様」と崇められ、神社が創られたほどの

名代官、鈴木重成でした。
重成は薬師堂住職が細川家の興秋であることに気づき

ましたが、事を荒立てることを嫌い、このことは内密に

していたそうです。



重成が呼び寄せた禅僧・中華珪法により御領城址に

開かれたのが、曹洞宗月圭山芳證禅寺です。
重成は、芳證寺を自身の両親の菩提寺とし、両親の戒名から

一字ずつ取って山号としました。


父の戒名 「月厳證心居士」
母の戒名 「圭壁貞芳大姉」


これが芳證寺の開基です。



重成は細川家と興秋を守るため、興秋の潜んでいた長興寺も

芳證寺に合併しました。
この後興秋は御領村大庄屋・長岡興秋となり、天草で生涯を

終えました。



芳證寺の墓地には細川興秋主従の墓があります。

同じ墓地の別の区画に大庄屋長岡家の墓地があり、

そちらにも主従の墓とは別に、興秋の墓が

建てられています。






芳證寺山門




芳證禅寺 石垣
芳證寺石垣



芳證禅寺本堂
芳證寺本堂



芳證禅寺




芳證禅寺 細川興秋主従の墓


芳證禅寺 細川興秋主従の墓碑
細川興秋主従の墓碑



芳證禅寺 細川興秋墓碑
細川興秋墓碑



芳證禅寺 細川興秋の墓
大庄屋長岡家墓地内の細川興秋墓




芳證禅寺墓地



以上が細川興秋切腹、そして天草で生き延びていたという

伝承のあらましです。

天草で大庄屋になったという伝承が真実なのかどうか、

確証はありませんが、かなりの真実味を持ち

語られています。





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