島原・天草旅行記 8 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

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細川忠興の長男・忠隆は廃嫡されたため、順当にいけば
忠隆にかわり細川家の次代となるはずだった次男・興秋も、
跡を継ぐことはできませんでした。



関ヶ原合戦の年、慶長5年(1600)、忠興は諸大名の中で

最初に江戸へ向けて人質を差し出しました。

人質となったのは当時15才で、光(みつ)と呼ばれていた

三男・忠利です。
この頃、前田利長が謀反をおこすとの風説が流れ、

縁戚関係であった忠興も荷担していると疑われるように

なりました。
忠興はこの噂を払拭するため、三男・忠利を人質として

送り出しました。

人質となった光は忠興の指示を守って慎重に日を過ごし、

徳川家世嗣である秀忠から信任を得るようになり、

慶長5年8月、秀忠から諱の一字を賜って元服し、忠利と

名乗るようになりました。

忠興は織田信長に仕えていた時代に長岡一帯(現在の

京都府長岡京市と周辺)を知行され、長岡と

名乗るようになりました。
豊臣政権下では豊臣姓を与えられていますが、長く

長岡と名乗り、当主忠興が細川姓に復したのは

大坂夏の陣の後、1615年頃です。
それよりも15年も前に細川姓に復するほど、忠利は秀忠から
深く信任されていました。


慶長9年(1604)、忠利は兄・興秋をさしおき、細川家の嫡子と

定められました。
翌慶長10年(1605)、興秋は忠利に代わる人質として江戸へ
送られる途中、出奔してしまいます。
弟の身代わりとされ、廃嫡された屈辱に耐えかねての

ことだったといわれています。

忠利を細川家次代とするように指示したのは、徳川家で

あったとされています。
この頃、加賀前田家には三万石の扶持を受ける高山右近が

健在であり、前田利長とは昵懇の間柄であったことも、

興秋廃嫡と関係しているようです。
キリシタン大名や武将らは、どちらかといえば豊臣方に傾く
傾向があり、徳川家から警戒の眼を向けられていました。

興秋は幼少の頃、重病にかかった際、母ガラシャから洗礼を
授けられています。
秀忠の信頼厚い忠利とは違い、キリシタン興秋は

徳川家にとって未知の存在です。
そのため細川家に対し、忠利を次代とするよう圧力を

かけたとみられています。
(ただし最近の研究では、キリシタンの洗礼を受けたのは、
年齢から考えて興秋ではなく忠利だったのではないかとする

説もあります。)



こうして弟に代わり江戸へ向かう途中の慶長10年、
興秋は出奔し、行方不明となりました。
その興秋が九年後の慶長19年(1614)、大坂冬の陣に際し

豊臣方が集めた浪人衆の一人として、突如姿を現しました。
翌年、大坂夏の陣では後藤又兵衛らとともに道明寺の戦いに

加わり、敗退する豊臣方の殿(しんがり)を務めて活躍します。



その翌日には家康本陣の攻撃に参陣しますが、大坂城は

落城。
興秋はわずかな手勢をひきつれて落ち延び、京都・伏見の
稲荷山東林院に潜伏しました。

東林院は細川家の家老・松井家の菩提寺だったので、

格好の隠れ場所でした。
しかし密告する者があり、興秋は捕らわれの身と

なってしまいます。
興秋の処分に関して徳川家では、忠興の長年の功績に免じ、
咎を問わない方針だったいわれています。

しかし忠興は体面を慮り、興秋に切腹を命じました。
遺体は稲荷山に葬られたといいます。
興秋、享年三十三。



実は興秋が大坂の陣に参陣したのは、忠興の意向を

受けてのことだったという説があります。
家名存続のための担保として、万が一豊臣方が勝利した

場合に備え、興秋を参陣させたらしいのです。

そのせいか、興秋は松井家の計らいにより、密かに

落ち延びていたという伝承があります。
いったん尾張方面に逃れ、ほとぼりが冷めた頃、遠く西国

九州の天草・御領村に落ち延びていったということです。
この計画は細川家には一切知らされなかったことから、

真実なのかどうかわからなくなっているようです。
後に細川家は肥後を治めることになり、忠興が

天草と目と鼻の先の八代の地に入っていますが、興秋と

音信があったのかどうかもわかりません。



興秋が天草・御領村に至ることになったのは、大坂の陣で

同じ豊臣方として親しくなった、元唐津藩重臣の

立家彦之進という人がきっかけだったそうです。

彦之進は武運つたなく大坂の陣で落命しました。
生前、興秋とともに大坂城に籠城中、様々なことを語り合い、

その中で興秋は、御領村のことを聞いていたらしいのです。
御領村には彦之進の親友で唐津藩重臣の関主水なる

人物が駐在していたことがあり、彦之進も幾度か天草を

訪れたことがあるということです。

天草住人にはキリシタンが多いということも、興秋の気持ちを

引きつける一因であったのかもしれません。

興秋は御領村でほんのわずかな家臣とともに隠れ住む

こととなり、彦之進の娘を妻として、一子・興季を

もうけました。
この興季が、天草御領村の大庄屋・長岡家の

始祖となりました。

以後、御領村の大庄屋として長岡家は長く

続くこととなります。



時はくだり幕末、天保3年(1832)。
父、興正の死去により、長岡興就は16歳で第11代御領組

大庄屋となりました。

この頃の天草は天災が相次いだうえ重い年貢を科せられ、
領民は容赦ない苦しみにあえいでいました。
これを見かねた興就は、再三にわたって代官に訴えましたが
聞き入れられませんでした。
意を決した興就は江戸に上り、弘化2年(1845)、老中筆頭

阿部正弘の登城途中に直訴し、天草領民が安心して

暮らせる仕法(法律)を公布して欲しいと命がけで

訴えました。

その結果「天草百姓相続方仕法

(あまくさひゃくしょうあいつづきかたしほう)が施行され、

領民は大いに救われたということです。



幕府が堅く禁じた「直訴」をした興就は当然死罪と

なるはずが、入牢した後、一時帰宅を許され、その後再度

捕らえられ、しかし死罪にはならず庄屋役を廃されました。

細川家の末裔だったので死罪にならずに済んだのでは

ないか、これは興秋末裔であることの証拠の一つであろう、

といわれています。
肥後熊本藩主細川家第18代当主・細川護貞氏は天草を

訪れ、興秋の足跡を辿ったと著書に書かれていますが、

興秋生存説の確証は得られなかったそうです。






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