本能寺の変 その時光秀は… 10 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。


※人気ブログランキングに参加しています。
よろしければバナーをクリックお願いいたします。



人気ブログランキングへ



※「光秀冤罪説を考える」シリーズの記事をはじめて
お読みくださる方は、まずこちら の「はじめに。」から
お読みください。




光秀が謀反をおこしたとされる根拠として、

『信長公記(信長記)』や『川角太閤記』等の記述が

用いられていることを、拙ブログで繰り返しご紹介して

きました。
それらの内容について詳しく見てみましょう。




川角太閤記にはその作者(川角三郎右衛門といわれる)が、

太田牛一の記した信長公記を読んだと思われる

記述があります。
川角太閤記「光秀の謀反」の項に


日向守の謀反のようすは、家中の衆の五人に言い聞かせ

られましたと、信長記にはございます。
この五人とは明智左馬助彌平次、同じく次郎左衛門、

藤田傳五、斎藤内蔵助、溝尾勝兵衛で、日向守は心中を

すっかり話し、「おのおのが同心したのは、この牛王誓紙の

裏に起請をその場で書かせられ、すなわち人質を取った

かたちで右の評定をしたのです」と、信長記にはございます。


とあるので信長公記を確認してみたところ、川角太閤記に

ある記述とは違っていました。

川角太閤記には光秀が謀反を打ち明けたのは五人と

ありますが、わたしの持っている角川文庫版『信長公記』と

新人物文庫版の現代語訳『信長公記』には



六月朔日夜に入り、丹波国亀山にて
惟任日向守光秀逆心を企て、明智左馬助・明智次右衛門・
藤田伝五・斎藤内蔵佐、是等として談合を相究め……


とあります。
信長公記には書かれていなかった溝尾勝兵衛の名が
川角太閤記に加わっています。
溝尾勝兵衛は光秀が亡くなった時に介錯をした人物と

されているので、印象的な人物としてその名が

加えられたのでしょうか。


さらに、信長公記に載っていたと川角太閤記に書かれた
牛王誓紙のくだりですが、信長公記を確認してみたところ
そういう記述はありませんでした。



川角太閤記に書かれた光秀に関する記述は、光秀家臣

だったとされる山崎長門守・林亀之助の二名から

川角三郎右衛門が聞いた話だということです。
川角太閤記に「山崎長門守・林亀之助の両人の雑談は、
たびたび承りました。(光秀が謀反を打ち明けたとされる)

五人衆と談合したとは申されませんでした。」とあります。
山崎長門守・林亀之助は、五人衆から謀反の話を

聞かされたのではないと言っているではありませんか!
それでは信長公記にはなかった溝尾勝兵衛の名前は

いったいどこから出てきたのでしょうか。
そして山崎長門守・林亀之助の二人は光秀家臣五人衆と

談合してはいないのなら、太田牛一が書いた光秀謀反の

くだりの情報源も山崎・林の二名ではないと

いうことになります。





※牛王誓紙(ごおうせいし)=熊野三山、あるいは全国の

熊野神社で配布されている特殊な神札。
烏文字と呼ばれる独特の意匠がほどこされたもの。
戦国時代、多くの大名や武将が起請文(誓約書)として

用いた。




※この記事の補筆訂正を2016.2.10こちら に書きました。






ペタしてね

読者登録してね