本能寺の変 その時光秀は… 13 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

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※「光秀冤罪説を考える」シリーズの記事をはじめて
お読みくださる方は、まずこちら の「はじめに。」から
お読みください。





以前こちら の記事で、光秀が謀反を打ち明けた家臣に

ついて書きました。
太田牛一『信長公記』には溝尾勝兵衛の名前がなくて、

川角太閤記には溝尾勝兵衛の名前があると書きましたが、

補筆訂正いたします。



桐野作人氏の『真説 本能寺』を読み返したところ、上記の

件について詳しくまとめられていました。



その前にまず太田牛一の『信長公記』についてですが、

これは牛一の自筆本といわれるものや写本を含めると、

20種類以上残っているそうです。
信長の幼少期から足利義昭を擁しての上洛までを首巻とし、

以後、上洛した永禄11年から天正10年信長没までの15年を、

一年一冊として計15冊にまとめられています。
表題も『信長公記』『信長記』『永禄十一年記』など様々です。
信長に仕えた牛一が折にふれ書き残していた信長に関する

メモのようなものを切り張りして、信長の一代記としてまとめた

ものだとされ、原本は江戸時代初期に成立したと

みられています。



亀山城において光秀が謀反を家臣に打ち明けたとされる

話の出典は、牛一の信長公記以外にも複数あります。
それらについての桐野氏の調査をもとに以下に記します。
(※の注意書きはミケ秀による)



a=打ち明けたメンバー b=打ち明けた時期と場所



①『信長公記』陽明本 

 (※近衛家の古文書や美術品等を保管する陽明文庫に

牛一自筆本の忠実な写しが伝わっており、陽明本と
呼ばれています。)


a 「明智左馬助・明智次右衛門・藤田伝五・斎藤内蔵佐」


b 「六月朔日(ついたち)夜に入り、丹波国亀山にて」




② 『原本信長記』池田家本

 (※岡山池田家に伝わる牛一自筆本)


a ①の四人に後筆で、三澤昌兵衛「溝尾勝兵衛」を

付け加える


b  ①に同じ




③ 『当代記』

(※小瀬甫庵の信長記をもとに再編纂したものが載せられた

二次資料)


a 「明知(ママ)左馬介(ママ)、同次右門(ママ)、藤田伝五、

 斎藤内蔵助、溝尾勝兵衛」

b 「六月朔日」「彼(か)の五人の者起請文をかゝせ人質を取り」
 「戌刻(午前八時頃)亀山を立ち大江山を越す」



④ 甫庵『信長記』


a 「明智左馬助、同次右衛門尉、藤田伝五、斎藤内蔵助、

 溝尾勝兵衛尉等」


b 「六月朔日」「亀山城」「午王の裏に霊社の起請文をと、

好んで当座に是を書かせ則(すなわ)ち人質を取り固め」



⑤ 『織田軍記』

(※別名、総見記、織田治世記。遠山信春という人が

小瀬甫庵の『信長記』を読んで、これをさらに考証したもの。
資料的価値は低いが、他書に見られない記述が一部ある。
他書に見られない記述があるという点は、『明智軍記』や
『武功夜話』に共通しています。)


a 「明智左馬助、同次右衛門尉、藤田伝五、斎藤内蔵助、

 溝尾庄兵衛等」


b 「六月朔日の夜」「丹州亀山の城にて反逆を企て」

 「五臣誓書を認(したた)め、この旨相違すべからざる由、

 一同に請負ひ、人質を献じ畢(おわ)んぬ」




⑥ 『日本史』

(※イエズス会宣教師・ルイス・フロイスが著した編年体の

歴史書)


a 「もっとも信頼していた腹心の部下の中から四名の

 指揮官を選び」


b 「聖体の祝日の後の水曜日の夜(六月一日)、同城

(亀山城)に軍勢が集結していたとき」



⑦ 『日本年報』

(※来日したイエズス会士により毎年作成された

ヨーロッパへの報告書)


a 「四人の武将」


b 「聖体の祝日の次週の火曜日(五月二十九日)、軍隊が

 城内(亀山城)に集った時」



⑧ 『川角太閤記』


a 「五人の者ども」とし、明智左馬助・同次郎左衛門・

藤田伝五・斎藤内蔵助・溝尾少兵衛を『信長記』

(甫庵筆か?)から挙げる。


b 六月一日酉の刻(午後六時頃)前後、「亀山の東の柴野」

(野条か)あたりで、光秀が軍勢を一町半離れ、明智弥平次に

五人の老臣を集めさせ、打ち明ける。




⑨ 『家忠日記増補追加』

(※松平家忠=深溝松平家第4代当主)


a 「明智左馬助・内(ママ)藤内蔵助・溝尾勝兵衛尉等」



b 「六月大一日、明智日向守光秀亀山の城に在(あり)て」





以上によれば、光秀が謀反を打ち明けたとされるメンバーは
⑨の三人が最小。
②の池田家本より先に書かれたとみられる①牛一の

信長公記、それに⑥⑦のイエズス会関係資料には

溝尾勝兵衛の名はない。
後から付け加えたとされる②の牛一・原本信長記と、

信長公記を元にした③④⑤⑧⑨の二次資料には

溝尾勝兵衛の名がある。…ということになります。



牛一は、本能寺の変を生き延びた女衆や関係者たちを

取材して信長公記(信長記)を書いたという話が

伝わっています。
しかし光秀が本能寺へむけて出発したとされる亀山城での

話の取材元を含め、情報源の詳細については不明です。
牛一が最初集めてきた話の中には溝尾勝兵衛の名は

なくて、後から追加取材した中に溝尾勝兵衛の名が

出てきたということなのでしょうか。


日本人が記したものとイエズス会の人間が記したものとに

差異があることも注目に値します。
亀山城の光秀に関してだけではなく、本能寺での信長最後に

関する話にも、牛一が記した話と外国人が報告した話とでは

違いがみられます。

次回はその違いについて書いてみることにします。






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