本能寺の変 その時光秀は… 6 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

※人気ブログランキングに参加しています。
よろしければバナーをクリックお願いいたします。




人気ブログランキングへ


※「光秀冤罪説を考える」シリーズの記事をはじめて
お読みくださる方は、まずこちら の「はじめに。」から
お読みください。



本能寺の変前後の光秀の動きを年表で見てみましょう。


光秀に関する研究書は多数ありますが、どれも年表は同じ

出典を使っているのでほぼ同じ内容になっています。
その中から二木謙一編『明智光秀のすべて』に

載せられている年表をご紹介します。



天正10年(1582)
5月

14日 家康の安土登城の際の供応役として在府を

    命じられる。(兼)
17日 西国出兵を命じられ、安土より坂本に帰城する。(信)
18日 信長から家康供応の内容を叱責され、森蘭丸ら小姓に
    打擲される。(軍)
19日 供応役を罷免される。(軍)
22日 備中出陣中の秀吉支援のため翌月二日に出陣する

    ことを命じられる。(軍)
    この頃、伊丹・近江を召し上げられ、出雲・石見を

    与えられる。
    光秀の落胆に対し、家臣らは信長討伐を

    進言する。(軍)

23日 坂本帰城後、重臣に謀反の意志を表明。

    晦日に亀山に集結することを伝える。(軍)
26日 坂本を発し丹波亀山城に参着する。
27日 愛宕山に仏詣、一宿参籠し、くじを引く。(信)
28日 同所西坊にて、里村紹巴らと百韻連歌を興行し、

    これを神前に納める。次いで亀山に帰城する。(信)
同晦日 中国発向と見せかけ、京都に向かう。(軍)



6月

1日 亀山にて信長に対する逆心を企て、明智左馬助らと

   談合し、諸卒に申し触れる。また談合の者共に先手を

   申しつける。(信)
2日 早朝、信長を本能寺に攻め、信長を自害させる、次いで
   信忠を二条御所に囲み、自害させる。
   夕刻坂本に帰城する。



※(兼)は吉田兼見の兼見卿記

(信)は太田牛一の『信長公記』
(軍)は作者不詳の『明智軍記』



『兼見卿記』は光秀や細川藤孝(幽斎)と親しく付き合いの

あった吉田神社の神官吉田兼和(後に兼見と改名)が記した

日記です。
兼見は藤孝と親類関係にありました。
『信長公記』は信長の弓衆・太田牛一が、信長について

折に触れメモしていたものや記憶を元に、後に

まとめたものです。
信長の死後に成立したものですので同時代史料ではなく

二次史料となりますが、信憑性が高く、信長研究の

超一級史料として知られています。
『明智軍記』は現代の小説のようなもので、成立したのは
信長や光秀の生きた時代から遙かにくだった元禄期であり、
作者も不詳、明らかな誤謬が多く見られ、他の比較的

信憑性の高い史料には見られない記述が多く、信用の

置けない悪名高い文献として知られています。
ですが、中には使用していい箇所もあるとする研究者もあり、
明智軍記の記述がすべてデタラメであるとも言い切れず、
他に光秀に関する詳細に記述された史料が少ないことから、
長年光秀研究に使われています。



年表作成に使われている兼見卿記と信長公記、共に

光秀側が記した記録ではありません。
明智軍記は論外。

年表の記述を詳しく見ていきます。



家康をもてなした安土饗応は光秀の公務であり、宴が

開かれた際に出された饗応膳のメニュー等も記録に

残っていることから、これは事実とわかっています。
光秀が信長から西国出兵を命じられたという信長公記の

記録も確かで、光秀は坂本に戻っているのでこれも

間違いありません。
しかし、供応役の内容を叱責されて森蘭丸(正しくは

乱丸)から打擲されたという明智軍記の記述は、最近の

研究では否定されています。  
同じく明智軍記の、丹波・近江を召し上げられ、かわりに
出雲・石見を与えるという記述も根拠がないもので、これも

現在は否定されています。

光秀が坂本から愛宕山に参籠し、「愛宕百韻」と呼ばれる
連歌会を催したことは出席者が記録しており、席上で

詠まれた連歌が奉納されているので、これも間違いのない

出来事です。



晦日、中国に行くと見せかけ京都に向かったという

明智軍記の記録や、亀山で家臣らと談合し、諸卒に京へ

向かうことを申し触れたという信長公記の記録は、どこから

拾ってきた話なのか非常に疑問です。
牛一は信長の家臣であり、光秀の側にいるわけでは

ありません。
それがどうして坂本や亀山にいた時の光秀の様子を

知ることができたのでしょうか。
明智左馬助(明智秀満)ら重臣を集めて行われたという

明智軍談合の様子を、どうして牛一は知り得たのでしょう。
信長公記や明智軍記以外の二次史料にも、光秀が信長を

討つ談合をしたということが書かれたものがあります。


『当代記』という寛永年間頃に成立したとされる著者不明の
読み物には、本能寺へ向けて出発する前に光秀が五人の
重臣(明智左馬助・明智次右衛門・藤田傳五・齋藤内藏助・
溝尾勝兵衛)に謀反の計画を打ち明けたと

書かれてあります。
もし本当にそのような談合が行われたのなら、それを

知るのは光秀と数人の重臣だけのはずです。
その談合の様子をどうして外部の者が知り得たのでしょうか。
牛一たちは誰からそんな談合があったことを

聞いたのでしょう。
談合に参加したという五人はみな、山崎合戦とその後の

混乱の中で落命しています。
この五人が生前、本能寺から山崎合戦へと続く動乱の日々、
多忙を極める間に、誰かに光秀謀反前夜の様子を

語り残したとでもいうのでしょうか。
そんな記録は目にしたことがないのですが…。

こういう出どころの怪しい話の数々が、信長公記に書かれて

いるからということで事実として認定され、それを元に

本能寺の変についての研究が行われ、光秀を犯人だとする

根拠にされています。

信長公記は信用の置ける確かな記述が多く、信長研究に

おいて最も重要な史料ではありますが、本能寺の変に関する

記述については今一度検討する必要を感じます。





ペタしてね

読者登録してね