本能寺の変 その時光秀は… 7 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

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※「光秀冤罪説を考える」シリーズの記事をはじめて
お読みくださる方は、まずこちら の「はじめに。」から
お読みください。



さて、ここでもう一度本能寺の変前後の信長とその周辺の
人物の動きを見ておきましょう。



天正10年(1582)5月29日、信長は安土城を京へ向けて

出発し、その日のうちに本能寺に入ります。
京都へは4泊し、6月4日に西国へ出陣する予定でした。



この頃信長の嫡男信忠は家康に同行し、信長より早く21日に
京都入りしていました。


家康が信長の招きに応じて武田家の旧重臣・穴山梅雪を

ともなって安土入りしたのが5月14日。
それから21日まで安土に滞在し、21日に安土を発って

京見物に向かいます。
28日には大坂を巡り、翌29日に堺入りしました。



もともと家康と共に堺へ行く予定だった信忠は、信長が

29日に上洛する予定だと知り、その上洛を出迎えるため

堺への出発予定を遅らせました。
信忠が堺行きを遅らせたことで京に信長・信忠の親子二人が
揃って滞在することになり、親子をまとめて倒す機会が

到来したため光秀は謀反を決意したのだとする研究者が

多くいます。



信忠は森乱(蘭丸)から27日に受け取った書状により、信長が
29日に上洛することを知りました。
この書状というのが現存しており、どういうわけか小畠文書に
納められています。
小畠氏というのは丹波の国人領主の一つで、天正3年頃から
信長方として行動するようになり、光秀が丹波攻めを開始
した際には、光秀旗下の一員として丹波攻略に

協力しています。
なぜ信忠が受け取った書状が小畠文書に納められて

いるのか、これも謎のひとつです。




さてさて、このまま本能寺の変検証に突入してしまい長く

なりそうですが、次回以降もぜひお付き合いください。





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