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※「光秀冤罪説を考える」シリーズの記事をはじめて
お読みくださる方は、まずこちら
の「はじめに。」から
お読みください。
本能寺の変を伝える文献は多々あります。
一次史料としてよく研究者に使われているものとして
『言経卿記』ときつねきょうき、『兼見卿記』かねみきょうき、
『多聞院日記』たもんいんにっき、『日々記』にちにちき、
『宇野主水日記(鷺森日記)』うのもんどにっき、
『御湯殿の上の日記』おゆどののうえのにっき等が知られています。
これらは公家、僧侶の日記や、天皇に仕える女官の日記で、
基本的にその日の出来事をその日のうちに
書き記したものです。
同時代の人間が新鮮な記憶を記したものなので、比較的
信憑性が高いとされます。
上記のうち吉田神社の神官・吉田兼見の記した
『兼見卿記』は少し特殊なものです。
『兼見卿記』はもともと書かれていた「別本」があり、別本を
ベースに後日書き直した「正本」というものが存在します。
なぜそのように二種類の日記が存在するのか。
兼見は光秀と日頃親しく付き合っており、本能寺の変が
おこった直後にも光秀と面会していることから変への関与を
疑われたので、光秀に関する記述を書き直したと
言われています。
兼見が本当に謀反に関わった黒幕であるとする、黒幕説を
唱える人もいます。
わたしは、兼見は光秀と共謀して変をおこしたのではなく、
まったく別の形で謀反に関与しているのではないかと
疑っています。
それはまた今後の拙ブログで検証していく予定です。
上記の日記はいずれも同時代の人間が書いたものでは
ありますが、全員が全員変の勃発時に現場にいた直接の
目撃者というわけではなく、集まってきた情報・伝聞を
記録したものですので注意は必要です。
研究者の中には、光秀が信長を暗殺したことがハッキリ
しているので本能寺の変に関して謎は何もないと
言い切る方もおられます。
わたしはまず、どうして光秀がやったと言い切れるのか、
そこからして疑問に思っています。
光秀が謀反人であるとされる根拠はいくつかありますが、
上記の日記等もその一つとされています。
当日の本能寺の様子を目撃した町衆などから情報を集めて
日記に記したと想像しますが、明智軍を装った
真犯人グループが桔梗の旗を掲げて襲撃し、さらに明智軍の
仕業であるとする流言を広めれば、一般の人々は簡単に
だまされてしまうのではないでしょうか。
未明の町中でいきなり大寺院から火の手が上がり戦闘が
始まった状況で、どれだけの人が正しい情報を
把握できるのかはなはだ疑問です。
混乱する中で目的を持って流言を広める人間がいれば、
そちらの方向に情報を統一することも出来たのではないかと
考えます。