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※「光秀冤罪説を考える」シリーズの記事をはじめて
お読みくださる方は、まずこちら
の「はじめに。」から
お読みください。
天正10(1582)年5月。
光秀は、信長から西国で毛利討伐にあたっていた秀吉を援護
するよう命じられました。
この頃織田軍をとりまく状況はどうなっていたのか
見てみましょう。
織田軍の特徴として「方面軍」体制をとっていたということが
あります。
武田、上杉、本願寺、毛利などの強敵と領土を接していた
信長は、配下の有力武将に一万単位の大軍団を預け、
各地の平定にあたらせていました。
これを現代の研究者は「方面軍司令官」と呼んでいます。
天正7年(1579)、光秀は丹波攻略に成功し、
翌天正8年(1580)、正式に丹波一国を加増されました。
同時に丹後国の細川藤孝、大和国の筒井順慶ら近畿地方の
織田家配下の大名が、光秀の寄騎として配属される
こととなりました。
これにより光秀を司令官として、畿内二ヶ国と近江・丹波・
丹後を包括する近畿方面軍が成立します。
歴史学者・高柳光寿氏はこの光秀の地位を関東管領に
並ぶものとし、「近畿管領」と名付けました。
天正10年3月に武田氏が滅亡し、その後武田領の知行割が
行われ、四ヶ国にわたっていた武田氏の領国のうち
信濃と甲斐は信長の嫡男・織田信忠の軍団に
与えられました。
駿河は家康へ、上野は滝川一益へ与えられています。
この時一益は「関東八州の御警固」「東国の儀御取次」を
申しつけられました。
一益が設けた厩橋(まやばし)の居城へは北関東の大名
たちが続々と出仕に訪れ、関東の北条氏、奥羽の
伊達氏・蘆名氏も恭順の態度を示しました。
北陸方面では柴田勝家が上杉軍と交戦中。
そして西国では羽柴秀吉率いる中国方面軍が、
備中高松城攻めの最中です。
高松城を水攻めにしているところですが、毛利の大軍を前に
秀吉は、信長自身の出馬を要請してきています。
そのため光秀も西国へ向うよう信長から命が
くだされたのでした。
さらに信長は四国の長宗我部氏攻めを決定し、信長の
三男・神戸信孝(かんべのぶたか)を司令官とする
四国討伐軍を出陣させることとしました。
5月、信孝軍は四国へ渡海するため大坂・堺近辺に集結
していました。
この時大坂には、光秀の娘婿で信長の甥である津田
(織田)信澄も出陣のため待機していました。
このように本能寺の変勃発直前には、織田軍が誇る五つの
大軍団、関東・北陸・中国・四国・近畿の各方面軍のうち、
光秀率いる近畿方面軍以外の四つはすべて京から離れた
地域に出陣しており、信長の近くには、光秀以外に軍団が
存在しない状態にありました。