本能寺の変 その時光秀は… 2 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

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※「光秀冤罪説を考える」シリーズの記事をはじめて
お読みくださる方は、まずこちら の「はじめに。」から
お読みください。




本能寺の変で信長を討った人物は、一般的には家臣の

明智光秀だと言われています。
(わたしはそれに疑問を抱くようになりましたが)

光秀が謀反をおこした原因として様々な説が提唱されて

います。
「説」というと何やら権威ある学説のように思えてきますが、
小説家の作り話から一般の人が特に根拠なくつぶやいた

妄想のようなものまで、「~説」の数は優に数十を超えて

存在するようです。
現在もこれが変の真因であるという決定的な説や

定説などはありません。




小説やドラマでよく取り上げられるものに怨恨説があります。
信長が光秀をいじめていて、それを恨んだ光秀が復讐したと

いうものです。
これは現在、学問の世界では完全に否定されていますが、

なぜかいまだにフィクションやネット上ではこれを真実の

ように語る人たちがいます。

怨恨説の根拠の一つとしてよく挙げられる話の一つに、

織田軍の武田攻めの際におこったとされる話があります。



天正10年(1582)3月11日、武田勝頼が信忠軍によって

討ち取られたあと、信長は信忠が通っていった道を後追い

しながら進み、その道中で信忠から送られてきた敵将たちの

首をあらためています。
3月19日、信長は諏訪神社上社神宮寺の一坊であった

法華寺に陣を張りました。
この時の話だとして光秀が信長から折檻を受けたという話が

まことしやかに語られています。



法華寺では先勝祝いの宴が開かれ、長年敵対してきた

武田家が滅んだことを喜んだ光秀が「これで私も骨を折った

甲斐があった」と言い、それを聞いた信長が「お前ごときが

どんな骨を折ったのだ!」と激怒し、居並ぶ諸将の前で

光秀の髷を掴んで欄干に光秀の頭を打ち付けた…

というものです。

恥をかかされた光秀が信長を恨み、これが謀反の一因と

なったという話ですが、この話の出どころは江戸時代に

書かれた「祖父物語」です。


「祖父物語」というのは慶長12年(1607)頃に成立したもので、
著者の柿屋喜左衛門(尾張清須朝日村住人)が祖父から

聞いた職豊期の武将らに関する見聞談をまとめた

聞き書き集です。
本能寺の変から20年以上も経ってから作られた

又聞き集であり、信憑性が極めて低く、とうてい

信用することはできません。



つい最近歴史を扱うテレビ番組で某小説家がこの話を

「史実」として紹介していて驚きました。
歴史を扱う番組は多いですが、学者以外の人の発言には

特に注意が必要です。



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