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※「光秀冤罪説を考える」シリーズの記事をはじめて
お読みくださる方は、まずこちら
の「はじめに。」から
お読みください。
何回にわたっての記事になるのかちょっと今は予想が
つきませんが、本能寺の変においての光秀の動きを
たどってみることにしました。
教科書には必ず載っていて日本人なら誰もが知っている
「本能寺の変」ですが、その詳細について知っている人は
意外と少ないようです。
テレビや小説の世界ではなく史実の世界の本能寺事変に
おいて、光秀はどう過ごしていたのでしょうか。
京都・法華宗大本山本能寺において織田信長が斃された
暗殺事件「本能寺の変」がおこったのは、天正10年(1582)
6月2日未明のことです。
この日に至るまでの日々を、少し遡って見ていくことにします。
天正3年(1575)、長篠合戦で織田・徳川連合軍が
武田勝頼軍に大勝した後、信長は武田領に進攻しようとは
しませんでした。
織田家は畿内や北陸に着々と勢力圏を拡げていましたが、
武田家は周囲を有力大名に囲まれており、これ以上
領土拡大することは難しかったからです。
無理に武田領に攻め込まずとも、当面は放置しておいても
織田家にとって差し支えはありませんでした。
しかし天正6年(1578)、上杉謙信が急死したことにより情勢は
変化します。
当時武田家と北条家は同盟を結んでいましたが、謙信の死を
きっかけにその同盟が破れます。
北条家は織田・徳川連合軍と対武田同盟を結び、一方
武田家は新たに上杉家と同盟を結びました。
しかし上杉家は家督争いにより戦力を大きく減らしており、
武田家に援軍を送る余裕はありませんでした。
この外交的失策により武田家は西と南の織田・徳川連合軍、
東の北条と対することになり、さらに織田方の北陸方面軍の
脅威にも晒されることとなりました。
こうして三方の大敵に包囲された武田家は消耗を重ねて
いきました。
武田家が持っていた各地の金山は信玄の時代にほぼ
掘りつくされ財政面も悪化していました。
そのため家臣らに戦費の供出が割り当てられ、領民には
重税が課せられており、領内には不満が充満していました。
このような状況で迎えた天正10年。
2月1日、信濃木曾谷の領主木曾義昌が織田方に
寝返りました。
織田軍侵攻を阻んできた木曾谷という天然の要害がこれで
消滅したことになります。
勝頼を見限った家臣らは他にも次々と武田家から離反
していき、一門衆の裏切りも相次ぎます。
信玄の弟・武田信廉(のぶかど・逍遥軒しょうようけん)は
織田軍と一戦もせずに甲府へ逃げ帰りました。
穴山梅雪(あなやまばいせつ・信君のぶきみ)という人は、
母が信玄の姉、妻が信玄の娘という一門の重鎮でしたが、
その梅雪までもが寝返って徳川軍を駿河に引き入れました。
その結果勝頼の本拠甲府も危うくなり、勝頼は各地を転々と
落ち延びることとなり、最後は3月11日、天目山で
討ち取られてしまいました。
こうして平安時代からの名門甲斐武田氏は終わりを
迎えました。
信長は光秀と筒井順慶、さらに摂津と河内の諸将へも
この武田攻めの出陣命令を下し、自身も3月5日に安土を
出陣していましたが、信長の本隊がまだ美濃を行軍中に、
嫡男信忠が指揮する先鋒部隊だけで戦闘を終結させて
しまいました。
信長は、高遠城攻略を成功させるなどした信忠の戦功を
多いに喜び、梨地蒔(なしじまき)の腰の物を与えるとともに
天下人の座を譲ることも表明しました。
「天下の儀も御与奪なさるべき旨仰せらる。」 『信長公記』
※御与奪=譲り与えること

