小早川秀秋 その4 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

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※「光秀冤罪説を考える」シリーズの記事をはじめて
お読みくださる方は、まずこちら の「はじめに。」から
お読みください。




桑田忠親編『新編 日本武将列伝 6』、そして永井芳順著
『咲き残す香こそ惜しけれ 小早川秀秋抄伝』の二冊を基に、
小早川秀秋についてここまで書き進めてきました。
永井芳順という著者はプロの作家や研究者ではなく在野の人

ですが、ご先祖が小早川家と関わりがあったとかで非常に

よく調べられています。
『新編 日本武将列伝 6』は校正ミスとは思えないような

年号の間違いが多く、通説や俗説を採用した内容と

なっています。
一方『咲き残す香こそ惜しけれ…』は通説の
出どころや誤りを

追求し、一般に広まっている小早川秀秋像をくつがえす

ものがありました。





天正17年(1589)、豊臣秀勝が領地没収となり、その領地丹波

亀山十万石は金吾に与えられました。
文禄3年(1594)、小早川隆景と養子縁組。
この時、正室として毛利輝元の養女(古満姫、長寿院)と結婚。
文禄4年(1595)、秀次事件に連座して丹波亀山の領地は

没収となります。
この為小早川隆景は小早川家の本貫地・安芸の三原へ

隠居し、隆景から正式に家督を譲られた金吾は筑前・名島

城主となりました。
慶長3年(1598)、石田三成の讒言により越前・北ノ庄へ転封と

なりましたが、秀吉の死により転封処分はうやむやとなり、

翌年には筑前・名島の旧領へ復帰しています。
一次転封となっていた間の名島領は「太閤蔵入地」として

代官石田三成が治めていたそうです。
代官三成の年貢取り立ては非常に厳しいもので、金吾が

名島城主として復帰してからは疲弊した農民と名島の地を

立て直すために懸命に働き、若いながらなかなかに良い

領主だったようです。
旧領に復帰した金吾に課せられた仕事は年貢対策だけ

ではなく、京大坂の動きにも注意を向けておかなければ

ならず、九州と京大坂を行き来する激務のなか酒量も

増えていき、だんだんと健康を害していきました。



そうして迎えた慶長5年(1600)、関ヶ原へむけて世は

風雲急を告げています。
いわゆる豊臣軍の挙兵に際して大坂城の淀殿は餞別を

出してはいません。
そのため石田三成は軍用金として私財を投げ出しました。
家康と三成の私闘ともいえるこの動きを見ていた金吾は、

当初中立を保とうという心構えでした。
金吾は亡き養父・隆景から「熟慮せよ。天下を狙うな。

天下の争いに加わるな」という訓戒を受けていたからです。
隆景と過ごした月日はわずかな時にしかすぎませんが、

その短い期間に金吾は隆景から多くのことを学んで

いたそうです。



関ヶ原合戦の当日、よく言われているように家康からの

鉄砲に驚き恐怖した金吾が腰を抜かしながら三成軍を

裏切ったという話はかなり脚色されています。
金吾が布陣していた松尾山にいた兵士の証言などから推測

すると、通説とは違い実際には家康からの合図が前もって

決められていて、その合図が予定通りにきたので安心して

行動を起こしたと考えられます


最終的に家康側につくことになり大谷吉継(刑部少輔)隊を

攻撃した金吾ですが、刑部と金吾との間に個人的な諍い

などがあったわけではありません。
秀吉の正室おねの侍女・ひがしという人は刑部の母であり、

侍女ひがしは幼い金吾をよく知る人でした。
その頃少年だった刑部も金吾をよく知っていたことでしょう。
死に際の刑部が金吾に向けて「人面獣心なり、三年の間に

祟りをなさん」という呪いの言葉を吐いたという話は、

約40年後に書かれた俗本により広まった話だそうです。




戦後の論功行賞で、金吾は家康から備前・美作等、

旧宇喜多秀家領の岡山藩五十五万石を与えられました。
名も小早川秀詮と改めました。
この頃金吾はまだ二十歳になるかならずかという若さです。
二十歳そこそこの若者の背中に五十五万石という大藩の

経営に加え、徳川家のための二条城造営という負担も

かぶさってきます。
そんな中、藩内では重臣・杉原重治誅殺されるという

大事件がおこったり、それがきっかけで同じく重臣の

稲葉正成が配下を連れて脱藩したりという内憂外患の

日が続きます。
さらに正室古満姫との離縁ということもありました。


そうした苦労がありつつも領国経営が少しずつ軌道に

乗り始めた矢先の慶長7年(1602)10月18日払暁、前日から

にわかに具合が悪くなり床に着いていたわずか二十歳の

金吾はあっけなく死去してしまいました。
俗書には毒殺説なども書かれていたりしますが、以前から

酒が過ぎて病気がちだった人ですので、多忙にお酒の

飲み過ぎが重なってしまったのかもしれません。




この小早川秀秋という人も光秀と同じく小説やドラマの世界で

不当に貶められている人だと、今回はじめて知りました。
優柔不断の臆病者で刑部の祟りに怯えながら狂死したと

いうのは完全に作り事です。
実際には関ヶ原にむかっていく中でなんとか中立を保とうと

した賢明な人であり、戦においては13人斬りをしたという

剛の者です。
二十歳になるかならずの若さで大藩を切り盛りし、家臣の

内紛に苦しんだりしましたが、少なくとも領民の為に善政を

布こうとした人でもありました。
幼い頃はおぼっちゃまとして育てられために多少わがままで

酒に溺れる弱さもあり、秀次の小姓や伊達政宗の小姓に

横恋慕して恋文攻撃をかけて追っかけまわした困った人でも

ありますが、小説などで描かれるへなちょこ金吾はほぼ

創作だと考えてよいでしょう。
二十年ほど前に亡くなった「国民的作家」と言われた

小説家の創作により金吾が情けない悪党として描かれて

しまったので、その金吾像を信じている人も多いことでしょう。
この国民的作家の創作についてある興味深い指摘が

永井氏の著書でなされていますので、興味のある方は

図書館で探してみてください。
『咲き残す香こそ惜しけれ…』は一般発売
された本では

ありませんので手に入れるのは困難なようですが、大きな

図書館には置かれていると思われます。




さて、ここまで4回に渡り金吾について書いてきて何を

言いたいのかと言えば、金吾の死は俗説にいわれる刑部の

祟りではなく、光秀の祟りである…ということです。
金吾は秀吉の甥であり、杉原家次の孫にあたる人物です。
家次が天正12年、本能寺の変の二年後に狂死し、妻や

一族の者たちは家次の死を光秀の祟りだと怖れ、福知山の

稲荷社に光秀を密かに合祀しました。
その16年後、関ヶ原の戦いにおける金吾の去就が勝敗を

決めるきっかけとなりました。
そうしてそこから豊臣家滅亡へと繋がっていきます。
この流れを家次一族はどのように見て何を感じたのでしょう。
関ヶ原から二年後には金吾が二十歳の若さで不慮の死を

遂げ、そこから十数年のうちにあれよあれよという間に

豊臣家は滅亡してしまいます。
光秀の祟りが家次一人の死では収まらず、ついには光秀を

滅亡に追い込んだ真犯人である秀吉の一族を滅亡させたの

だというふうに家次の妻たちが信じたとしても不思議では

ないのではないでしょうか。
家次の妻たちが金吾の死を光秀の祟りだと信じていたのだと

したら、実際に祟りであるかどうかは問題ではなく、そこに

既に祟りが発生しているのです。




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