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※「光秀冤罪説を考える」シリーズの記事をはじめて
お読みくださる方は、まずこちら の「はじめに。」から
お読みください。
光秀はやはり冤罪だった!?
神社庁ウェブサイト内、福知山御霊神社
のページを
ご覧ください。
そしてこちら には、光秀が福知山以外の場所でも
御霊として祀られていると書かれているでは
ありませんか。
これはそのうち真偽を確かめにいかなくては
なりません。
今回は先日の記事に続けてもう少し御霊について
書いてみようと思います。
「御霊」とはもともと「怨霊」だったものです。
人に祟りをもたらす怨霊が、神として祀りあげられた
ことにより、ご利益をもたらし守ってくれる
ありがたい御霊へと変化するというのが、
御霊信仰です。
怨霊による祟りは大きく二種類に分けられます。
一つは地震、洪水などの天災や、大火、疫病、
その他広く世間を脅かし、不特定多数の人々が
犠牲(祟りの対象)になるもの。
もう一つは、特定の個人が怨霊から祟られる
場合のものです。
生前、誰かからあらぬ罪をかぶせられたり、政争で
追い落とされたりして不幸な亡くなり方をした人が、
死後怨霊となり自分を陥れた相手に復讐する
場合があります。
光秀の場合、この二つタイプの怨霊のあり方の
両方にあてはまるようです。
生前の光秀が治めていた福知山(光秀当時は
福智山)に、洪水などの災害が続いたため、
領民たちはこれを光秀の祟りだと考え、光秀を
神社に祀ることとしました。
その後不思議なことに災害はぴたりと
治まったそうです。
「祟られた」と感じる人がいなければ、怨霊は
誕生しません。
いくら怨霊が暴れまわり人々や町に災害を
もたらそうと、それを怨霊のしわざだと思う人が
いなければ、ただの災害やたまたまの不幸な
出来事で済んでしまいます。
怨霊が誕生するか否かは、祟られる側の心の
問題なのです。
光秀が怨霊として誕生したということは、つまり
光秀から祟られたと感じた人がいると
いうことなのです。
それも不特定多数を襲う天災としてだけではなく、
個人として「光秀に祟られた」と思った人が
いるというわけです。
光秀に対して祟られるような「何か」を行った
覚えのある人間がいたのです。
福知山御霊神社創建に関わり、光秀の怨霊を
御霊として祀りあげようとした個人(正確には一族)が
存在します。
その証拠を、先日御霊神社で入手することが
できました。
つづきます。

