『信長公記』に見る明智光秀  その17 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

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巻十一 御茶湯の事


天正6年(1578)正月。
元日に五畿内(山城・大和・河内・摂津・和泉)と

近隣諸国の大名・武将たちが安土に出仕して、

信長に新年の挨拶をしました。
挨拶がはじめられる前に、12人の者たちが朝の

茶の湯に招かれました。


この名誉を受けた12人の顔ぶれは、織田信忠・

武井夕庵・林秀貞・滝川一益・細川藤孝・荒木村重・

長谷川与次・羽柴秀吉・丹羽長秀・市橋長利・

長谷川宗仁、それに明智光秀です。


茶頭(さどう)は松井友閑がつとめました。
茶の湯の後は皆で出仕し、三献(さんこん)の作法で

盃を頂戴しました。
お酌は矢部家定・大津長治・大塚又一郎・

青山忠元が担当しました。


三献の作法とは、宮中で行われていた「三献の儀」と

呼ばれる作法のことで、時代が下るにつれて

民間にも広まり、現代でも結婚式の三々九度として

行われています。



三献の後、完成に近づいていた安土城の中を、

御座所に至るまですべて見て回ることを

許されました。
障壁画は狩野永徳により描かれ、室内は多数の

名物道具で飾られ、そのすばらしさに皆、

感嘆するのみでした。
一同には雑煮と舶来の菓子などいろいろと賜り、

感激したそうです。





「正月朔日、五畿内・若州・越州・尾・濃・江・勢州、

 隣国の面々等在安土候て各々御出仕、

 御礼これあり。

 先朝の御茶十二人に下さる。

 御座敷、右勝手六畳布、四尺縁。
 

 御人数の事、
 中将信忠卿・二位法印・林佐渡守・滝川左近・

 永岡兵部大輔・惟任日向守・荒木摂津守・

 長谷川与次・羽柴筑前・惟住五郎左衛門・
 市橋九郎右衛門・長谷川宗仁、
 巳上。
 

 ………
 

 御茶過ぎ候て各御出仕あり。三献にて御盃

 御拝領。

 ………

 其後御殿御座所迄皆見せられ、三国の名所を

 狩野永徳に仰付けられ、濃絵(ダミエ)に移され、

 色々御名物はせ集まり、心も詞も及ばれず。」




※濃絵(ダミエ)とは、群青や緑青の原色を濃厚に

用いて描かれた装飾性の高い絵画のことです。
実写的な絵を好んだ信長のために、狩野永徳は

実写に苦心して描き、信長にほめられた話が

狩野家に伝えられているそうです。




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