光秀冤罪説を考える 1 光秀と御霊神社 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

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先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

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※「光秀冤罪説を考える」シリーズの記事をはじめて

お読みくださる方は、まずこちら の「はじめに。」から

お読みください。






御霊信仰をご存知でしょうか。
天変地異や疫病の流行などといった恐ろしい

出来事がおこる原因を、非業の死を遂げた者の

祟りであると考え、その霊を慰めるために

御霊(怨霊)として祀り、祟りから逃れようとする

日本独自の信仰です。



霊魂の存在が信じられていた起源は古く、古代まで

遡ると推測されていますが、亡くなった者の魂が

怨霊として祟ると考える御霊信仰が形成されたのは

平安時代以後のことです。
平安の頃、怨霊を祀りあげると逆に天災や疫病を

祓い守ってくれる御霊になるという信仰として

広まりました。
その後、御霊のためのおまつり、

御霊会(ごりょうえ)もおこなわれるようになりました。




怨霊となって祟るとされたのは、主に政争で

敗れた者、そして、身に覚えのない濡れ衣を

着せられて亡くなっていった者です。



長岡京を築いた桓武天皇は、わずか10年あまりで

長岡京を捨て、新たな都・平安京を建造しました。
長岡京時代に天変地異が頻発し、疫病が猛威を

奮い、蝦夷討伐に派遣した大部隊はアテルイ率いる

東国軍に大敗を喫しました。
桓武天皇はこれらの災いの原因を、無実の罪を

かぶせて追い落とした実弟・早良親王の祟りで

あると恐れ、早良親王の怨霊から逃れるために

平安京に移り、長岡京を廃市としました。
ところが平安京に遷都してからも疫病が流行り

続け、多くの人が命を落としました。
桓武天皇は、早良親王に崇導天皇と

諡(おくりな)し、神社を建ててその魂を祀ると、

やっと疫病はおさまりました。
(実は諡を与えただけではなく、他にも風水の

テクノロジーを用い、京都の街に怨霊封じの

仕掛けを施したという研究もあります。)

こうして平安時代が始まり、早良親王以外にも、

非業の死を遂げた多くの人たちが御霊として

祀られるようになりました。


菅原道真が陰謀により太宰府に流され、京に

戻ることなく亡くなると、都に災いが続きました。
その後道真は祀りあげられ、ご存知のように

学問の神様としてご利益をもたらしてくれる

ありがたい神となりました。



他に御霊として祀られた貴人として、井上皇后、

他戸親王、藤原大夫人、伊豫親王、橘逸勢、

文屋宮田麻呂、吉備真備などが有名です。





さて、光秀が治めた領地、福知山。
この街の氏神神社は光秀を祭神とする

「御霊神社」です。

福知山・御霊神社創建のいきさつは現宮司・

足立常秋氏の説明によると、光秀の遺功を慕った

領民たちが、災害の続く福知山の地を光秀に守って
もらいたいと、子孫が先祖を祭るお盆行事のような

気持ちで祭るようになったということです。

しかし御霊神社に関する資料を見てみると、

少し様子がちがってきます。


井上智勝著『吉田神道の四百年 神と葵の近世史』

によると、『福知山市史』に、「元禄十二・十三年の

大火、同十六年の地震が光秀の怨霊のしわざで

あると恐れて、御霊会が始まったものと思う」
という記述があるそうです。


さらに井上氏は御霊神社に伝わる由緒書

「明智日向守光秀祠堂記」を紹介されています。
宝永二年(1705)に記されたこの「祠堂記」には、

同年に福知山の人々が光秀を祭ったのは、当時

福知山を襲っていた火災や洪水が、光秀の霊魂が
祟りをなしているものと思われたためであることが

明記されているそうです。



先日、福知山御霊神社を訪ねて足立宮司に

お話を伺ってきました。
くわしくお聞きするのを忘れた部分があるのですが、

先代だか先々代だかの宮司が急死され、うまく

引き継ぎできなかったことがあったらしく、
足立宮司がご存知でなかったことを、井上氏の

著書や他の著書で見つけることができました。




わたしはやはり福知山御霊神社の「御霊」の
意味は、本来の御霊信仰からきた「怨霊」の意味が

あると考えます。
戦国武将を祭った神社としては、柴田勝家を祭る

柴田神社があります。
光秀の遺徳をしのび祭るのであれば柴田神社と

同じく「明智神社」という名でもよかったはずです。
確かに光秀を祭る「明智神社」も存在しますが、

それは光秀が朝倉家に仕えていた時代に住んで

いたとされる屋敷跡に明治時代に作られたもので、

秘仏を祭った小さな祠が神社と呼ばれるように

なったとのことです。
ですので光秀が御霊であるとかないとかという

こととは関係のない、まったく別のものです。



どうして光秀の領地福知山に造られた神社は

「明智神社」ではなく「御霊神社」となったの

でしょうか。



つづきます。




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