琉球競馬「ンマハラシー」ポスターより

 沖縄における馬の歴史を考えるとき、琉球馬と大和馬に呼び分けをしなければならない。(琉球馬ー宮古馬・与那国馬ー)

 琉球馬は、明国(1368~1644年)が中国を支配し南京に都を置いていた時代、東アジアは朝鮮国・日本国・琉球国と称され、琉球国は盛んに明国と国交を行い、特に馬はその最たるものであった。しかし、慶長13年(1609)4月14日、薩摩藩島津氏は横山久隆に琉球国を攻めさせ国王尚寧を降伏させた。同年7月7日、徳川家康は島津19代当主家久に琉球国平定の功を賞し琉球国を与え実質的支配を認めたため、自主交易が不可能になった。

地歴高等地図より

 明実録・正徳大明会典の記録に琉球国から馬の貢進を応安6年(1374)から始めており、多い時には983頭もの馬を買い付けておりその内訳は、子馬・牝馬・騙馬(去勢された牡馬)とある。牡馬の去勢習慣は大和では明治以降である(拙著「過去と現在そして未来の日本在来馬」2019年)。

 沖縄では馬の生存期を11世紀~12世紀前半で、朝鮮半島を経由し・九州・南西諸島とされている。それは馬の依存体と共に出土した共伴物が中国産の白磁玉縁口縁椀、長崎県産の滑石性石鍋、鹿児島県徳之島産の甕があることだ。

 馬歯骨の年代測定から宮古島への馬の渡来時期は14世紀と推定され、与那国馬の初見は文明8年(1477)正宗実録に比乃興国(いやなくに)とある。与那国島に馬の飼養がいつからされたか起源は不明であるが、漁師により島々を経由して移入されたと考えられる。

 琉球王朝・察度王が即位した観応元年(1356)頃から中国・朝鮮との大交易時代を迎え、貢物として馬は重要な品物の一つであった。その後も琉球王府は江戸幕府への献上品に馬が一つ入れており、御用馬の生産を宮古島の農民に命じ王府から派遣された武士は馬に乗り宮古島を統治するとともに産馬を奨励した。特に宮古馬は従順で馬力があることから官馬として歓迎された(拙著「過去と現在そして未来の日本在来馬」2019年より引用)。

 琉球において「競馬」の記録は、南島史学9号、比嘉洋子著に「1615年3月21日 火曜日 首里は祭日で闘鶏と競馬が見られる。時々雨と雷 北東風」」と、「冊封使行列から博物館における学びを考える」里井洋一著の「馬当方の久米公事長」に、徐葆光は「中山伝信録6巻の中で「蹀躞(ちょうしょうー歩様が側体歩であることー」トシテ行クヲ善シク、山路埼嵌ニシテ沙礫中ヲ上下スルモ顚蹶(てんけつ)ヲ見ズ、此レ即チ其ノ習フ所ナシナレバ、山ヲ上リ水ヲ渉ルニ即チ馳ス」と記している。

 琉球競馬の歴史的な事象については「消えた琉球競馬ー幻の名馬「ヒコーキ」を追いかけてー」梅崎晴光著 (有)ボーインク 2012年11月21日に詳しい。

 2013年3月2日・10日、沖縄こどもの国に於いて「琉球競馬・ンマハラシー」が70年ぶりに開催され、その後毎年開催されており、数えること21回目が、2026年1月18日に沖縄こどもの国で2部形式で行われた。

 1部:琉球大学教育学部附属小学校4年生による「与那国馬と琉球競馬」の学習発表があった。

 ① 与那国馬:温厚でタフ・人間の話をよく聞く・懐が深い・足腰と蹄が強い・毛色は鹿毛のみ・背中に鰻線(まんせん)がある・冬と夏で毛の長さが変わる・日本在来馬の中で最も小さい馬である。

 ② 琉球競馬「ンマハラシー:琉球王国から1943年までの約300年間、沖縄には「ンマハラシー」と呼ばれる競馬が行われていた。かつて沖縄には200以上もあった馬場で、地域の農業行事の際などに開催され、出店もあわせて大変な賑わいをみせた。競技方法は2頭で行われるが全力疾走するのではなく、足並みの美しさ(速足ーはやあしー)・スピード感・リズム・真っすぐ進んでいるか・馬と騎手が美しく着飾っているかを競うと言うことを演技も含め精一杯発表した。

琉球大学教育学部附属小学校4年生

与那国馬は温厚なため女性でものれる

足腰がと蹄が強いため荷駄馬として使用もできる

サトウキビの搾汁にも使用された

琉球競馬「ンマハラシー」の説明

「馬と騎手の一体感」や「馬の足運びの優美さ」がポイントとなる

 

 与那国馬の説明の中で残念なことは、日本在来馬の中で最も小さい馬は、愛媛県今治市野間馬ハイランドにいる「野間馬」である。

 

 この間違いの原因は、与那国島東崎(あがりざき)牧場に設置された与那国馬説明パネルにそのように記載されているからである。

 2013年4月26日に取材で訪れた際に保存会担当者(町役場職員)に、パネルの表記が間違っている旨を伝えたところ「ご指摘ご最もです」と間違いを認めた。

 2016年に陸上自衛隊駐屯基地内に航空自衛隊移動式レーダー基地ができ、与那国島が様変わりした情報を得たため、2017年10月2日に再度取材に行った。

 驚いたことは「立派な箱物」に対て「水田の耕作放棄地」や「豊かな自然が崩壊」していた。何故に「東崎牧場の与那国馬説明パネル」は2013年4月26日に訪れたときと同じ状態であった。

 保存会担当者を訪ね指摘したが、暖簾に腕押し状態であった。

 

 2部:「ンマハラシー」競技

 本来は馬の歩様は速足の「側体歩」と着飾った馬と騎手により勝敗を競った。

唯一側体歩が出来るピース号(雑種)

 

 日本在来馬8種の中で「側体歩」が出来る馬は北海道和種に限られ、他の在来馬「斜体歩」である。

 21頭の馬(与那国馬・雑種)と30人の騎手が出場し、鞍数が100鞍以下は「わらばー部門」。それ以上は「うまんちゅう部門」。そして牧場対決(沖縄こどもの国・琉球美ら馬ホースクラブ&CaFe・うみかぜホースファーム・久米島馬牧場)の「シーの一番(結び)が、白色の襷・赤色の襷を身に着けた騎手により、芝生内のコース往復100mを走り勝敗を競う。

 審判は4人の審査員と、白色・赤色が塗られた団扇を持つ観客が判定した襷の色の数で勝敗が決まる。

 左から二人目は元JRA騎手・岡部幸雄氏

 

 デモンストレーションが元JRA騎手・岡部幸雄氏(赤色の襷)と沖縄こどもの国騎手により行われた。

 岡部氏:斜体歩(しゃたいほ)の与那国馬

沖縄の工芸品「花笠ーはながさー」と、沖縄のお盆に着られる「エイサー」を身に着けた騎手(中学3年生、4回目の出場)、馬は与那国馬

 

「わらばー部門」決勝

赤色の襷・優勝

 

 

「うまんちゅう部門」、(決勝の写真が不鮮明で掲載出来ず)

側体歩の動画

 

ーシーの一番(結び)

優勝:久米島馬牧場 久米島紬を着た騎手と与那国馬ムギ号

 

優勝者と与那国馬によるウイニングラン

 

生まれも育ちも久米島馬牧場、小学6年生。昨年に続き2連覇

優勝馬:与那国馬ムギ号と騎手の母親

 

 

 京都上賀茂神社において古式競馬「競馬ーくらべうまー」が毎年5月5日に行われている。上賀茂神社で「競馬」が始められた確実な記録は、保延2年(1136)9月15日に鳥羽上皇の御幸による競馬10番とされている①(日本の古式競馬、長塚 2002年)。

 早朝から古儀に倣って菖蒲の根合わせを始めとし各式典が執り行われ、午後2時ごろ竹に青柴が巻かれた埒を芝生の上に設け走路とする。上賀茂神社社領19国20荘園の馬たちが古儀を踏襲し儀式競馬が奉仕される。

19国と20荘園分布図 パンフレットより

埒と走路:著者撮影

左片(さかたの装束)

右片(うかたの装束)②馬 アジアを駆けた二千年図録より

先の大戦中でも「加茂競馬」は実施され、今年で890年になる。装束に於いても古儀倣っているため保存費用(修復など)がかかるため、その一つとして上記扇子の販売費などが充てられる。

 

 使用されている馬は体高が低い競馬場の払い下げのサラブレット馬(愛知県西尾市、稲垣牧場乗馬センター代表・稲垣氏より聞き取り)

 乗り手は「乗尻ーのりじりー」と呼ばれゴールから見て左側を左方、右側を右方と言い加茂氏一族の者に限られ、2頭によるマッチレースが10番行われる。1組目は古儀に倣い左方の美作国倭文庄(みまさかのくに、しどりのしょうー岡山県北部ー)が勝利する。他の9番レースは左方が先に走り出し、1馬身遅れで右方が出走し、その差が少しでも縮まれば右方の勝利となる。

左方・著者撮影

右方・著者撮影

 

右方・三河国小野田庄(みかわのくに、おのだのしょうー愛知県豊橋市石巻小野田町ー)

 

 

在来馬の活用を考える

「活用なくして保存はできず」と語った方は、40数年前に「与那国馬絶滅の危機」と言う新聞記事を読み、馬の知識や乗馬経験がないながら神奈川県から自給自足の生活をしながらでも「与那国馬」を守る思いで与那国島に来た。が、島民には直ぐには受け入れてもらえず、1頭の牡の与那国馬を手にいれるまで数年を要した。噛まれ・蹴られ・乗っては振り落とされながら、仕事の合間に馬と遊び続けていると、馬がいるだけでなんやかんやと人が寄って来ることに気づいた。そうしているうちに、ボランティアのみで運営している「馬広場」が出来上がった。ボランティア活動として働き「与那国馬」を愛した若者たちが与那国島を出て、久米島・石垣島で「馬広場」を開設し立派に独り立ちしている。2017年10月1日付けで「一般社団法人ヨナグニウマ保護活用協会」を立ち上げた「久野雅照ーひさの まさてるー」氏である。

 

 第21回琉球競馬「ンマハラシー」に娘さんが騎手として出場したと言う母親が、「沢山の観戦者がいるけれど、ンマハラシーに出場する馬の牧場関係者は沖縄県外から来られた方ばかり。もっと沖縄県民自身が馬と関わり、触れ合う場所と機会をつくることが必要」と言われた言葉で納得と、「対州馬」のことを思い出した。

 近藤誠二編「日本の馬ー在来馬の過去・現在・未来ー」の中で、8種の保存会が掲げる在来馬の未来を読み、「対州馬」が気になり、2024年5月中頃に目保ロダム馬事公園でインストラクターをされている方に進捗状況を電話で問い合わせた。

 「前任者から引き継いだときに聞かされたこと、対馬市職員が書いた記事にギャツプがあり、対馬市市民に対州馬に興味がない。対州馬を知ってもらうため、軽トラックに馬を乗せ、小学校の出前授業に行っている」との返答が返ってきた。

体高123㎝、目保ロダム馬事公園で一番大きい 著者撮影

 

 上記の「対州馬」に反して「与那国馬」は、昨年8月の町長選挙で元町議が現職を破り初当選した新町長は与那国馬に大変理解があり、「よなたんーよな=与那国、たん=端ー」の愛称を付け、保存と保護に積極的に取り組んで頂いている(久野雅照氏より聞き取り)。

 

 2025年10月、山梨県鳴沢村の紅陽台木曽馬牧場代表・菊池幸男氏から、山梨県内にいる木曽系和種馬を含め在来馬の血統を持つ和種馬に「甲斐駒」の商標登録がされたことを知らされた。所謂「在来馬」がブランド化され、県内外を問わず利活用されている。

 日本書紀に「甲斐の黒駒」や「聖徳太子が明日香宮から甲斐の黒駒に乗って富士山を一周して帰った」等の話がある。

 黒毛馬の産出は容易ではないが、古の馬名がブランド化されたのは喜ばしいことである。

甲斐駒の活用

 

 琉球競馬「ンマハラシー」は70年振りに再開されて以降、在来馬は「与那国馬」だけであるが、年を追うごとに盛大になり今や沖縄県の伝統行事になった。

 日本古式競馬「競馬」は、サラブレット馬を使用しているが、加茂氏一族の努力により、890年もの長き歴史を刻んでいる。

 日本各地にに残る「伝統的馬事行事」に、「在来馬」の使用選択しを持ち「利活用」されることを切に願う。

 

 

引用文献

①日本の古式競馬~1300年の歴史を辿る~ 長塚孝 2   002年1月1日 神奈川新聞社

②九州国立博物館開館5周年記念特別展 馬 アジアを駆けた二千年 2010年7月10日 九州国立博物館

③帝国書院編集部編 地歴高等地図 現代世界とその歴史的背景 2018年10月15日 帝国書院

④拙著「過去と現在そして未来の日本在来馬」2019年3月28日 

 ⑤南東史学9号 ウイリアム・アダムス 琉球諸島航海日誌 1614ー1615年 比嘉洋子著(訳)1976年12月

⑥日本の馬 「在来馬の過去・現在・未来」近藤誠二編 2021年10月5日 一般社団法人東京大学出版会

⑦日本書紀 井上光貞・川副武胤・佐伯有清訳 2003年7月25日 中央公論

 

 

                鈴 木 純 夫

 

 

 

市制施行45周年 開館30周年記念特別展

馬のいななきと王の光ー継体天皇と河内の馬飼いー

四条畷市立歴史民俗館 図録より

 

前置き

 縄文時代が近年の研究により、3000年遡り1万6000年前から始まったとされる。このことにより弥生時代の日本における水田稲作の開始と鉄器の出現が同時期と考えられていたが、水田稲作が500年ほど早く始まったこととなった。一方で鉄器の出現した年代は紀元前4世紀前葉と変わらなかった。(東京国立科学博物館 特別展「古代DNAー日本人のきた道ー」2025年3月15日(土)~6月15日(日)図録より)

 

 拙著「過去と現在そして未来の日本在来馬」の1:日本における馬の起源で、古墳時代4世紀後半~5世紀に朝鮮半島から準構造船に乗って九州北部を経由して河内(現在の大阪府四条畷市)に初めて移入されたと記した。

宮崎県西都原考古博物館に展示されている準構造船の埴輪

著者撮影

 

 北海道大学名誉教授近藤誠二氏の論文「在来馬とはなにか」(日本の馬ー過去・現在・未来 2021年10月5日 一般社団法人東京大学出版会)の中で「今なお3世紀の遺跡から馬の歯が出土したと言う論文が2016年に発表されているようであるが、丹念な調査と聞き取りにより否定されている。(鈴木 2019年)と評価して頂けたことが自身の名誉である。が、拙稿の中で書き足りなかった記事・記録、また、DNA分析・考古学分野、新聞報道における新知見から4世紀の古墳・遺跡からは「馬」に関わる出土物が無いが、4世紀後半から急激に古墳・遺跡から「馬」に関する出土物が発見されるようになったのかを知るために、新たに「馬」の東国伝播説をシリーズにて詳細に考察する。

著者推測図

(河内~現在の岩手県奥州市)

 

1:5世紀の大阪府四条畷市蔀屋北遺跡も含めての遺跡から「馬の全身骨格」の存在。

①大阪府四条畷市蔀屋北遺跡の全身骨格

  体高:約127cm、年齢:5~6歳 雌雄不明

平成21年度 第24回特別展

馬は船に乗ってー蔀屋北遺跡の馬飼い集落からー

四条畷市立歴史民俗資料館2009年 図録より

 

②大阪府東大阪市日下遺跡

縄文時代~古墳時代の遺跡。厚さ1mからなる縄文土器・土師器・須恵器などを含む土層から出土。

体高:125~127cm、12歳前後の牡。

大阪府教育委員会埋蔵文化財課

著者撮影

 

③熊本県熊本市上代町遺跡

体高:約125cm、12歳位の牡

熊本市考古資料館

著者撮影

 

④長野県飯田市宮垣外遺跡

体高、年齢不明、牝

飯田市上郷町考古資料館

著者撮影

 

2:論文「在来馬の遺伝的背景」

戸崎晃明氏 2021年10月5日 一般社団法人東京大学出版会

DNA分析の結果、「馬」は朝鮮半島から対馬を経由して九州北部を経由して河内に移入した。

ウマ属における種間の遺伝的関係

日本在来馬系8品種と海外32品種における品種単位の系統解析

モウコノウマの染色体数:66

日本在来馬の染色体数:64

 

モウコノウマ

多摩動物公園

著者撮影

 

イ:北海道和種

北海道大学静内牧場

著者撮影

ロ:木曽馬

現在の木曽馬は近親交配が進んでしまったため、敢えて開田高原郷土館の「第三春山号」を掲載。

昭和26年4月8日長野県更埴市の武水別神社から譲り受けた神明号(12歳)を父に、木曽系純血種鹿山号(21歳)を母として生まれた。(鹿毛)

昭和28年夏に第三春山号血統も良く、馬格(体高:132cm)も優れていたので種牡馬候補昭和49年12月頃に至り一度も病気したことが無かったが病にかかり、炉薄いため衰弱し一時危険状態となった昭和50年1月14日、多くの村民に見送られて重い足を引きずりながら木曽馬の故郷開田村を去った。明け25歳であった。

昭和5昭和49年12月頃に至り一度も病気したことが無かったが病にかかり、炉薄いため衰弱し一時危険状態となった0年4月8日、剥製となって木曽馬の故郷開田村へ帰り郷土館に展示されている。

(木曽馬とともに、伊藤正起氏 開田村木曽馬保存会 2000年6月10日)

開田高原郷土館

著者撮影

ハ:野間馬

愛媛県今治市 野間馬ハイランド

著者撮影

ニ:対州馬

長崎県対馬市 目保ロダム馬事公苑

著者撮影

ホ:御崎馬

江戸時代、「高鍋藩」秋月家の放牧場として当地が選ばれ、「鹿毛」・「黒毛」・「青毛」だけが御崎馬と言うようにされていた。が、2022年10月2日に取材に訪れた際、「都井岬で生まれた馬は全て御崎馬と名乗るように決められた」と言われた。毛色は何であれ生まれた馬は廃馬と言わない。

栗毛のため2011年7月30日に取材に訪れた際に廃馬といわれていた。

宮崎県串間市 都井岬

著者撮影

へ:トカラ馬

鹿児島指宿市 開門山麓自然公園

著者撮影

ト:宮古馬

沖縄県宮古市 荷香取牧場

著者撮影

チ:与那国馬

沖縄県 与那国島 北牧場

著者撮影

 

3:仁徳天皇陵より鉄ナイフが出土

(2025年6月20日 中日新聞朝刊より)

堺市や国学院大学などは6月19日、国内最大前方後円墳で宮内庁が「仁徳陵」として管理する大山古墳(同市、5世紀)から、副葬品として金メッキの鞘に入った鉄製ナイフ「金銅装刀子」や甲冑の破片を確認したと発表した。大山古墳で実物として確認できる唯一の副葬品という。国学院大学入手した新発見の資料で共同研究していた。刀子は二つに折れており長さは合計約10.5cm。持ち手の部分が欠損しており本来は約15cmと推測される。

 

 

引用文献   

四条畷市立歴史民俗資料館  馬のいななきと王の光

              馬は船ににのって

東京国立科学博物館 特別展 古代DNAー日本人のきた道

     2025年3月15日(土)~6月15日(日)

「在来馬とはなにか」近藤誠二氏 2021年10月5日

             一般社団法人東京大学出版会

「在来馬の遺伝的背景」戸崎晃明氏 2021年10月5日

             一般社団法人東京大学出版会

木曽馬とともに 伊藤正起氏 開田村木曽馬保存会

                 2000年6月10日

中日新聞朝刊           2025年6月20日

拙著「過去と現在そして未来の日本在来馬」2019年3月      

 

 

 

本年最後の掲載になります。

皆様におかれまして、来る年が良き一年になりますようご祈念申し上げます。

 

 

三重県鈴鹿市 石薬師東古墳群 「馬形埴輪」

東京国立博物館 特別展「はにわ」

著者撮影

 

 

 

2025年12月15日

鈴 木 純 夫

 

 

 

 

 

 

 

石和八幡宮神職による安全祈願と走路のお清め

口上流し旗・「流鏑馬奉納仕り候」

走路を往復

神事・馬上舞

流鏑馬神事・1の射手

2の神事射手

3の神事射手

これより馬上武芸

平騎射

1の射手

2の射手

3の射手

4の射手

5の射手

6の射手

TEAM龍神の馬上舞

馬上舞

3騎流し旗・往復

蟇目(ひきめ)

弓手下・押捩

2の射手

薙刀(なぎなた)

薙ぎ払う扇の準備

追物射(おものい)

1の射手

2の射手

3の射手

長槍

同時打ち(押捩・追物射)

馬手追物射(めておものい)・馬手下(めてした)

1の射手

2の射手

 

写真協力

林 佳夫氏

 

 

                 鈴 木 純 夫

建久2年(1192)石和五郎信光(武田信光)が鎌倉幕府創建における功績により甲斐国河東半国の守護職となり石和に政庁として居館を構えた際、鎌倉鶴岡八幡宮を勧請合祀し甲斐源氏の氏神として国衙八幡宮と改め、後に石和八幡宮と称した。

走路:165m、3的、的間:53m

 

石和八幡宮の神棚に向かって行進

 

宮司による祝詞

 

神事

 

馬上舞

流鏑馬神事の安寧を願って煌びやかに走路往復

 

流し旗:「流鏑馬奉納、仕り候」の豪壮な掛け声と共に走路を往復

先陣の前方を、流し旗を持って駆ける勇敢な武者

(蒙古襲来絵詞ー西尾市岩瀬文庫ー)

1の神事射手

2の神事射手

神事の時、奉行が座る胡床

馬上武芸の際には、床几に変える。

馬上武芸

平騎射

馬上舞:TEAM龍神 音楽に合わせた大変雅な舞姿

馬上舞 優雅な舞姿

 

3騎流し旗・往復

 

蟇目(ひきめ)3騎が同一姿勢から矢を放つ

弓手下(ゆんでした)・押捩(おしもじり)

 

薙刀:的杭に置かれた扇を見事に薙ぎ払った

薙刀:長さ・225cm

 

槍:見事な槍裁きと正確に「萱」を突く技術

 

同時打ち:前者は押捩(おしもじり)・後者は追物射

押捩(おしもじり)はモンゴル騎馬武者の特異な技で、敵を誘い出し、罠に嵌ったところで射る。(モンゴルの歴史・宮脇淳子・刀水書房) 凄いみごたえ!!

 

 

馬手追物射(めておものい)・馬手下(めてした)

弓を左に構え、馬の首を跨ぎ右側に射る。難度の高い技を見事に決める。

 

協力

石和八幡宮

紅陽台木曽馬牧場

甲州和式馬術探求会

江州和式馬術探求会

TEAM龍神

 

動画提供 河合里恵氏

 

引用文献

西尾市岩瀬文庫

モンゴルの歴史

 

        2025年5月6日 鈴木純夫

11月18日に山梨県北杜市小淵沢、八ヶ岳ロングライディング乗馬クラブでの餌やり体験中に、4歳女児が右手中指の一部切断事故が起きた。事故の詳細報道が無いため原因は分からないが、調教された馬にスタッフ指導のもとで行われていれば防げられていたはずだ。馬の温もりを感じ、馬に少しでも興味を抱いてもらえる最初の一歩である。大きく・優しく・愛くるしい眼に心惹かれる思いをされた方は多いと思う。しかし所詮「畜生」であるため、いくら調教されていても何が起こるか分からない。そのため最悪のケースを想定しなければならない。6歳までの幼児の餌やり体験は道具を使用するのが安全だ。

与那国島、毎週日曜日の「島民無料体験乗馬会」2013年4月28日。(現在は行われていない)

著者による餌やり

5歳の孫による餌やり

 

16年前、愛知学院大学講座・聴講生として図書館を利用していて目にしたのが「日本在来馬、絶滅の危機」である。

1:日本の馬の歴史を物語る生きた文化財である。

  東京恩賜上野動物園元園長・小宮輝之氏

2:日本の馬の歴史と文化土壌の中でその身体の形状、気質がはぐくまれ、日本人と馬が共生してきた証である。

  東京農業大学教授・滝坂信一氏

 

著者も同感である。

 

2012年7月17日付で、公益社団法人日本馬事協会から、各動物園園長に「日本在来馬の展示及び保護への協力依頼について」と題し以下のように要請している。

公益社団法人日本動物園水族館協会会員の各動物園におかれましては、我が国の在来家畜、中でも日本在来馬の展示、保護等についてご理解、ご協力を頂き、お礼申し上げます。(中略)昨年もお願い致しましたが、各動物園におかれましては、絶滅が危惧される在来馬の保護のため、在来馬の飼育展示や利活用等にご理解とご協力を頂きますよう、再度、お願いの文書を差し上げます。(以下略)

2008年度、2012年度、直近の2023年度で在来馬の推移と現状をみていく。

 

1:北海道和種

2008年度 1,254頭

2012年度 1,354頭 対08年度+100頭

2023年度 1,143頭 対12年度△211頭

一時的に増加したが生産者の高齢化で激減。しかし、1,000頭を割り込むことはないようだ。

 

独特な「側体歩ー左右の前肢・後肢が一緒に出る、時代劇で城中を裃を付けた武士が、両手を脚の付け根に当て、楚々と小走りする様子ー」が出来るため伝統的な「ダンヅケ」を適宜行っている。

  側体歩

ダンヅケのようす

一説に300㎏の荷物を背負い、10㎞運んだと言われる。

側体歩で走るようす。

トレッキング・ホースセラピー・馳弓(はせゆみー疾走する馬上から矢を射るー)として使用される。

ホースセラピー・サラ系よりも体高が低いため介護者の安心感、介助者の量力が減り安全性が保たれる。

馳弓・馬手下(めてした)、大変難度が高い射法

 

2:木曽馬

2008年度 149頭

2012年度 157頭 対08年度+8頭

2023年度 128頭 対12年度△29頭

 

以下の写真を見て頂きたい。

父娘交配が行われ、子の「鈴風」が種馬になっている。

(御崎馬の項参照)

鈴風号が種付けした牝馬たちの名前

種馬・鈴風号

鈴風号が種付けした、愛知県の公園の牝馬が、2012年2月28日に出産した(牡)

当時の園長が子馬(鈴春)の異変に気付き、同年9月17日に木曽馬保存会から担当者と獣医に来てもらったが、触りもせず「先天性右後肢屈強不全」と言われた。

このことから、明らかに近親交配が原因だと分かる。

2022年度に新しい種馬を導入

何頭に種付けしたか分からないが、2023年度は1頭も出産しなかった。(聞き取り)

近親交配が進んでしまったこのような状況下で「まともにトレッキングが出来る乗用馬」を生産するのは困難であろう。

 

12年前にホースセラピスト養成講座に通ったときに、講師の先生が名古屋大学医学系を卒業され方であった。ご夫妻は京都府の山間部に施療施設を持ち、木曽馬2頭で重度難病者の施療に取り込まれていた。木曽馬を選んだのは、介護者・介助者にとって「従順で大人しい性格、また、斜体歩(しゃたいほー右前肢が出ると左後肢がそれに続くー)だから、北海道和種の側体歩よりも介護者の神経系統を微妙に刺激する」と言われた。6年間通所した子供が初めて言葉にできた

 

3:野間馬

成馬であるが体高は約100㎝

 

2008年度 81頭

2012年度 60頭 対08年度△21頭

2023年度 52頭 対12年度△8頭

 

2020年時点で愛媛県内では野間馬ハイランド50頭、とべ動物園2頭の2カ所で保存されている。その内訳は、繁殖・保存を行うための基礎集団(繁殖集団)と、繁殖終了馬、去勢馬、高齢馬などの集団である。後者の集団は、特に温順な性質であることから馴致や調教を行い、おもに子供の乗馬体験や乗馬療養などの利活用になっている(体高が小さいため、乗馬できるのは小学生で体重が30㎏まで)。

将来に向け飼養場所の分散化が求められる。絶滅危機の回避を図るためには、すでに実施されている他の動物園などへの譲渡または貸出をさらに進めていく必要がある。

次に、飼養されている基礎集団をサポートする副次集団をつくることが求められる。副次集団の形成には財政的にも困難が予想されるが、将来の課題として公共性や公益性を有する機関などへの委託を含めて検討すべきであろう。

さらに、馬のジーンバンクを推進することが重要である。すでに家畜改良センター十勝牧場では日本在来馬の6馬種、北海道和種、木曽馬、対州馬、トカラ馬、宮古馬、与那国馬の生体及び凍結精液による遺伝資源の保存を行っている。家畜改良センター十勝牧場の久保喜広係長は、野間馬についても凍結精液の作成・保存に関する現地調査を行っており、今後の成果が期待される。

橋口 勉氏(日本の馬 在来馬の過去・現在・未来)

 

4:御崎馬(国指定天然記念物)

ハレム群で食事をしている。

 

「御崎馬における父娘交配とその回避機構」より

加世田雄時朗氏・野沢 謙氏 1996年5月9日

日畜会報、67(11)996-1002、1996

要約

野生状態で生息している御崎馬に関する16年間の行動調査と父子判定の結果を基に、12頭の種雄馬とその51頭の娘を対象に父娘交配の発生状況とその回避機構について分析した。12頭の種雄馬とその51頭の娘が共に繁殖可能であった176回の繁殖シーズンのうち、82回は両者が互いに異なった地域で過ごした。すなわち、雌子馬が繁殖前に生来地を離れて他の地域へ移出し、繁殖可能なシーズンに父親と異なった地域で過ごすことによって、父親との接触が物理的に回避され、その結果として父娘間の交配が回避された。種雄馬とその娘が同じ行動域で過ごした繁殖シーズンは94回であったが、両者が安定した配偶関係を持った事例は1例も観察されなかった。すなわち本研究では、雌子馬が性成熟以前に生来群を離れる、いわゆる分散によって父親と娘の間の配偶関係の形成が回避された。父子関係が確定した124例のうち2組の父と娘の間に2頭の子馬が生まれた。この2例とも娘は父親とは別の種雄馬の群で生まれ育って、性成熟後に父親とハレム群を形成した。一方生来群を一度離れた雌子馬が性成熟後に再び生来群に戻り、その種雄馬(幼児期に一緒に過ごした種雄馬)と安定な配偶関係を持った例は1例もなかった。この結果は野生馬や半野生馬で報告されている「幼児期に同じ群で過ごした経験によって近親交配が回避されたり、性行動が減少する」という仮説を支持している。

 

2008年度 115頭

2012年度 87頭 対08年度△28頭 

2011年度に「馬伝染性貧血症」で、12頭殺処分しているため。

2023年度 92頭 対12年度+5頭

2023年度の子馬の出生数は20頭であったが、2024年12月16日では雄:6頭、雌:7頭の13頭が生存している。この数はほぼ毎年同じであるようだ。

都井岬は550haの広さ。

江戸時代初期の高鍋藩による藩営の牧場が設置され、周年放牧・自然繁殖による馬産が行われてきた。

高鍋藩の時代、馬の被毛は鹿毛・黒毛・青毛のみでその他の被毛は廃馬とされたが、現在では都井岬で生まれた馬は被毛の色は関係なく、全て「御崎馬」としてカウントする。

栗毛のため廃馬とされた(2011年7月30日著者撮影)

 

現在、15~20のハレム群とハレムを持てない雄で構成されている。1群のハレムは種雄馬・約4頭の雌馬・子馬1頭で、朝方に丘の牧草を食べ日差しが厳しくなる頃に薮の中に入って行く。先頭を行くのは年長の雌馬で、見守るように最後尾は種雄馬が行く。

ハレムの雄馬

日陰を求めて薮の中に進む。

 

緑鮮やかな牧草は、馬糞が一役かっている。毒草の除去や草原管理のため、毎年1月に「御崎馬牧組合」の方々が野焼きを欠かさず行っているためでもあるが、草原生態系を維持している「箱ものでない自然博物館」が都井岬にはある。

串間市役所エコツーリズム推進室 秋田 優氏

毒草・馬は食べ残す。

 

5:対州馬

2008年度 30頭

2012年度 28頭 対08年度△2頭

2023年度 44頭 対12年度+16頭

 

対馬市の天然記念物に指定され、初午祭(毎年10月の第2日曜日)の「馬跳ばせー目保ロダム馬事公園で毎年行われる競馬ー」があるが、市民の間に「対州馬」の存在が行きわたっていないため、男性インストラクターが荷台に馬を乗せ、小中学校へ出前授業にいっている。対馬では牧草が育たないため餌代金の負担が大きい。

韓国からの観光客は増えているが、「馬」に興味が無いようである。

島の暮らしを支えた優しい馬たち(島の暮らしを支えた優しい馬たち 豊田稔氏・吉原知子氏 日本の馬 在来馬の過去・現在・未来)に、「2020年は2頭の子馬が誕生した。今後1年につき4-5頭ずつ生産させ、5年後(2025年)に島内頭数50頭を目指していく方針である」との旨をインストラクターに伝えると「机上の空論でありそのような状態に無い」と回答された。

2020年度 39頭

2021年度 41頭

2022年度 45頭

数字だけ見れば順調に生産されているようにみられるが、2023年度は44頭で前年度△1頭で、机上で考えるようには行かないと回答されるのも無理はない。

対州馬のグルーミング

 

6:トカラ馬

鹿児島県薩摩川内市、鹿児島大学入来牧場の馬

(人間を察知すると一斉に逃げ出す)

鹿児島県指宿市、開門山麓自然公園の馬

(人間を無視している)

トカラ列島十島村中之島の馬

(カメラを向けると寄ってくる)

 

2008年度 115頭

2012年度 114頭 対08年度△1頭

2023年度  90頭 対12年度△24頭

内訳

鹿児島大学入来牧場 17頭、周年放牧・半野性

開門山麓自然公園  56頭(雄20頭、雌26頭)

      13頭出生し2頭を鹿児島大学入来牧場へ移出

(岩崎グループ・ホテル部門が飼養。午前8時~午後5時まで放牧されているがそれ以外の時間は牧舎に集められる)

中之島       17頭(雄6頭、雌11頭)周年放牧

       3頭出生  近親交配がかなり進んでいる。

       来年、鹿児島大学入来牧場から1頭譲渡予定

(鹿児島県の指定天然記念物で十島村が飼養している)

鹿児島大学入来牧場は「牛の研究施設であり、トカラ馬は種の保存と牧草管理の目的」のために飼養している。

牧柵が20個ほどあり、牛が食べ残した牧草を食べさせ、馬糞は良い堆肥となり、翌年青々とした牧草が茂る。

 

牛が食べ残した牧草を食べる

 

馬・牛の口の形状の違い

「近年、新たな旅へと巣立っていったトカラ馬たちは、異なる環境に適応し、はつらつと歩み始めている。調教に手を差し伸べて頂いた方々のおかげである。また、トカラ馬を維持する意義も次第に理解されつつある。結果、トカラ馬保存会には、トカラ馬を飼育したい、活用したい、増やしてみたいという要望が届くようになった。」(トカラ馬 孤高に生きる 岡本 新氏 日本の馬 在来馬の過去・現在・未来)と書かれているが、開門山麓自然公園の担当者(岩崎グループ)に問い合わせたところ、「そのような話は聞いたことがない」と返答された。

この時点では保存会事務局は鹿児島大学畜産学部であったが、昨年から獣医学部に変更になった。

 

7:宮古馬(宮古島市が所有している)

2008年度 31頭

2012年度 35頭 対08年度+4頭

2023年度 48頭 対12年度+13頭

2017年度から増減はない。

「宮古馬保存会の事務局が、宮古島市市長部局の畜産課から教育委員会の文化財担当課に移管された。沖縄県や日本馬事協会、中央競馬会などの支援も強化された。2020年3月、新たな体制で保存活用計画がつくられた。全頭を沖縄県天然記念物として扱うこととし、種の保存のため2030年度をめどに100頭に増やすこととした。また、宮古馬保存会の法人化を目指すこととした。(中略)近く整備される県立宮古公園の中に、宮古馬ふれあい広場も計画された。」

(琉球王府を支えた馬 長濱幸男氏 日本の馬 在来馬の過去・現在・未来)

ここ7年間で48頭を維持するのが精いっぱいの状況下の中、6年先に100頭に増やすのは到底考えられない。また「整備される県立宮古公園のなかに、宮古馬ふれあい広場も計画された」の部分について、文化財担当課に電話取材したところ「ただ計画しただけである」とコメントされた。聊か風呂敷が広過ぎる感がある。

ウムグイ 沖縄に伝わる頭絡で手綱1本で操作できる。

荷香取牧場の種雄馬・体高約122cm。2013年4月23日にトレッキングをさせて頂いた。準備をして頂いてる方が、荷香取明広氏

僕の体重が45㎏であったためか、快適に走ってくれた。(現在は行われていない)

2012年度35頭の中、20頭が荷香取牧場代表・荷香取明広氏が市から委託飼養している。市から支払われる委託飼養費は1頭あたり月5,000円、子馬出産祝い金100,000円が支給される状態で、このままでは到底飼養できないと嘆いておられた。再三市との間で委託飼養費の値上げ交渉をしたが実らなかった。が、保存会事務局の移管や、中央競馬会が関わった年以降に再度値上げ交渉をした結果、値上げに至り、年間1頭につき500,000~800,000円が支給されるようになった。

この低廉な委託飼養費が問題で、2018年12月発売の「週刊SPA]で一部の飼育者が劣悪な環境で、まともな飼育もせずに衰弱死させたことが写真入りで報道された。この報道がSNSで拡散され、非難の声が上がった。

2030年度までに何頭に増加するか、密かに見守る事しかできない。

 

8:与那国馬

北牧場の与那国馬

 

2008年度 85頭

2012年度 130頭 対08年度+45頭

2023年度 110頭 体12年度△20頭

2011年度の141頭がピークで増減はあるが、110頭以上を維持している。

周囲27㎞の小さな島で、北牧場・東崎(あがりざき)牧場にいる。(南牧場は雑種が周年放牧されていたが、近年の自衛隊のレーダー基地の設置で閉鎖された)

2013年4月26日に訪れたときは、漁業・田・畑・森があり、その自然の豊かさに心安らいだ。

毎年、カジキマグロ釣りの世界大会が行われていた。

与那国馬体験乗馬会 体高約122cm 3歳から一人で乗れるようになった女の子

 

当時、場長であったインストラクターの朝倉氏と海辺へ向かう途中、先に行ってかまいません。と言われ「爽快」」に駆けたことを思い出す(僕の体重45㎏)

 

海岸外乗 

海馬遊び

日本最後の夕日が見える丘

 

現在、与那国馬が利活用されるに至っ経緯は「久野正輝氏」の存在を語らずにはおけない。1982年に与那国馬が絶滅の危機におちいた新聞記事をきっかけに与那国島へ移住。1992年に「ヨナグニウマふれあい広場」を開設したのである。2017年10月に沖縄本島・久米島・石垣島の代表で「一般社団法人与那国馬保護活用協会」を立ち上げた。

久野氏はただ者ではない大きな器の持ち主であり、現在の与那国馬があるのはその証だ。

現在、静岡県伊豆の国市に「伊豆の国馬広場」・高知県高知市に「四万十馬広場」が加入した。

 

中国による再三の領海・上空侵犯により、宮古島市・与那国町に自衛隊駐屯地・レーダー施設が数多く作られている。そのため、この地域人口が増えるを良しと考えている議員がいると聞く。

第2次世界戦争以降も、悲しいかな、常に日本の矢面の先に立たされている。

 

総括

2008年度 総数1,860頭

2012年度 総数1,958頭 対08年度+98頭

2023年度 総数1,707頭 対12年度△251頭

3年度共に、北海道和種の比率が約67%を占めている。

このパターンは、公益社団法人日本馬事協会が日本在来馬の飼養頭数推移を表した1985年から変わっっていない。

 

引用文献 

 日本の馬 在来馬の過去・現在・未来 2021年10月      5日 一般社団東京大学出版会

 公益社団法人日本馬事協会 日本在来馬の飼養頭数の推移

  御崎馬における父娘交配とその回避機構

  加世田雄時朗氏・野澤 謙氏 日畜会報、67(11):996-1002、1996

 

公益社団法人日本馬事協会に登録されていない「木曽系和種馬」を生産・馴致・調教し、利活用されている方が山梨県で牧場を営んでいる。

紅陽台木曽馬牧場代表・菊地幸男氏である。日本の馬一筋に乗馬術、馬具、騎射法等を研究され、40年ほど最前線で活躍しておられる。

山梨県笛吹市石和町にある石和八幡社の「石和八幡甲斐駒流鏑馬神事」を紹介する。

蒙古襲来絵詞より。西尾市岩瀬文庫

馬具はほぼこれに近い。舌長鐙(したながあぶみ)で「立ち透かしー常歩以外は鞍の上に座らない乗り方で、競馬の騎手の乗り方を想像して頂きたいー」の乗馬法で乗る。

流鏑馬・一の神事射手

流鏑馬・二の神事射手

流鏑馬・三の神事射手

馬上舞

馬上武芸・流し旗

馬上武芸・追物射(おものい)

馬上武芸・押捩(おしもじり)

馬上武芸・弓手下(ゆんでした)

馬上武芸・長巻

馬上武芸・槍

 

この様なことが出来るのは、日々の稽古に励んでいるこそである。

 

 

 

 

 

協力 紅陽台木曽馬牧場

   甲州和式馬術探求会

写真提供 林 佳夫氏

 

パリ2024年オリンピック大会で、総合馬術団体障害飛越競技において「銅メダル」を獲得した。実に92年ぶりのことである。団体では初めてで、4人の平均年齢は41歳。

1932年ロスアンゼルス大会で、陸軍騎兵将校・西竹一中尉(30歳)が障害飛越競技で「金メダル」を獲得して以来の喜ばしい出来事であった。愛馬ウラヌスはフランス生まれのアングロノルマン・栃栗毛で体高が181cm。

1945年、中佐に昇格した西竹一は本土を守るべく硫黄島へ戦車第26連隊の連隊長として赴くが、アメリカ軍の容赦ない攻撃により3月22日に戦死した。享年僅か45歳の若さであった。

 

2024年有馬記念(中山競馬場・距離2,500m)でレガレイラ(3歳牝馬・鹿毛)が64年ぶりに優勝を飾った。

平均時速59㎞。1960年のスターロッチ以来である。

テレビで実況放送を見ていたが、ゴール直前首の上げ下げの僅差で勝利の女神がレガレイラに降りた。未だ、3歳だからこの先が楽しみである。

 

競馬会を騒然とさせた「通信機器の持ち込み」問題で、女性騎手として歴代最多の166勝した藤田奈七子騎手(27歳)が、騎手免許の取り消し申請がJRAに受理され、10月11日に引退した。騎手人生約8年半である。

通信機器の持ち込み禁止

八百長の防止策として、JRAの騎手は開催前夜(午後9時まで)から外部と接触できないように競馬場やトレーニングセンターにある施設のロッカーに預け、「調整ルーム」で過ごすことが義務付けられている。

何と後味の悪いことか!

 

一人ごとですが、38年前から乗馬クラブへ通うようになり当たり前のように「乗馬ライフ」を読んでいた。3年後にはローカルな馬術競技会でしたが出場させていただいた競技結果が「紙面に掲載」され、自分の名前が書かれていて嬉しかった。日本各地の乗馬クラブが紹介されており、あこがれは、「一度は山梨県北杜市小淵沢の乗馬クラブで馬に乗りたい」であった。

乗馬人口が減少したのか、「馬ライフ」と名前が変わった。現在は、書店の「スポーツ雑誌コーナー」に置かれていない。図書館でさえ市町村によっては雑誌コーナーに置いてない。

書店で購入予約しても、手にするのに5日間ほどかかる。本の薄さが時代を語っているのでしょうか、寂しい!

 

 

来る年が、皆様方におかれまして、良き一年となることを祈念いたします。

 

             2024年12月29日

              鈴 木 純 夫

 

 

 

今年が最後の騎乗となった中学生3年生。(西から東へ)

 

砥鹿神社の由緒・縁起・祭神が「三河国一宮砥鹿神社誌」と砥鹿神社の社務所から頂いた「パンフレット」では内容の相違点があるため、「三河国一宮砥鹿神社誌」より「やぶさめ神事」の由緒のみを掲載する。

 

東から西へ

 

5月4日 神幸祭:古来本社の例祭として最も盛大に行われ来たもので、明治以降当日が例祭となったので、今は之に付随する「神幸祭」や「騎乗式」が特殊神事として執行され、またその前後の行事もなるべく古儀が遺存されている。

貞享(1684~1688)の縁起に、5月4日毎年式日大祭礼也従朔日至4日是日御神体八握穂社行幸供奉諸役数百人帯刀還御之時競馬十二疋矢武佐目 と記されている。即ち本祭は1日から4日にわたり各種の行事が行われたのであった。

明治4年(1691)の記事に 神主禰宜一同馬乗馬引弓負人一同御社内へ揃う、之に於いて御大祭を始め御行幸、八束穂社に於祭詞御還御終て流鏑馬あり。其の模様は御庭前鳥居の内外を輪乗りするの例なりしも、明治4年大祭より今日に至は、東西馬場を颿走するの例となりたり。

騎馬は古く神主家から2頭、他の社家から各1頭合わせて12頭を出していた。其の中神主家からの1頭はっ神子馬として何も載せずに牽く。現在も同じく12疋で、氏子12組中から1頭宛て出すこととなっている。乗り子は十歳前後の子供で、当時の冠り物は十人が竹編笠、1人は烏帽子(戸賀里家より馬の乗り子)を被ったが、明治4・5年頃から33年迄は一斉に烏帽子となり、33年(1900)以後は現在の如く全て竹編笠となった。次に流鏑馬神事のの馬駆けは、古く本社正面から入り三ノ宮の前を過り、二ノ宮の正面を外に出て、本社正面へと一巡したのであるが、明治4年からは現在の如く社頭を東西に駆けることになり、そのため当日県道を通行止め立札を建て且つ馬場両側に埒を設備することとなった。明治以前の大祭には、毎年吉田藩の代官1名が臨場する例となった。

騎乗式

日時:5月4日午後4時半

神幸祭・神輿還御後引き続き行われる。花火の音と共に騎乗開始となるや、美々しく飾られた12頭の馬上に、同じく晴れの装束を着けた乗り子が打乗り、片手に鞭、片手に「布引」を持つ(布引とは5色の紙を幅1・5cm、長さ110cmほどを繋ぎ合わせて巻いたものを数本を合わせて持ち、馬上より靡かせる様を形容してかく呼ぶ)。合図を待って一鞭当てれば、逸り立った馬は直ちに馬場(約200m)へ駆け出す。手にした布引は風に靡いて5色の波を作り、乗り子馬共にさながら絵巻物を展開した様である。馬場は鳥居前から八束穂神社前迄で、その間を各馬が3往復(もともとは6往復であったがいつしか現在のようになった)する。両側木柵を埋め尽くした観衆は1騎手(乗り子)ごとに手を叩き声を揚げ、或いは布引を手に得んとひしめいて暫くは取り合いで賑わう。布引を飾って置けば魔除けになるという俗信があるからである。このようにして12頭全部の騎乗が終わると、日も暮れかかり、終式の花火の音を合図に乗り子一同打揃って末社津守神社へ参拝し退却する。

もとは流鏑馬式であったことは古記録に窺はれるが、今は神幸祭の中で形式的な流鏑馬神事が行われるのみとなり、還御後騎乗式の名称で、単に馬場を往復するに止まっている。然しながら本社に於いては単なる武技の上覧に止まらず、別種な信仰的行事が之に付随しているようである。それは本祭が挙行の日時が5月4日ということで、直ちに想起されるのは端午の節句との関係であって1日の相違は認められるが、相互に相関連する所があることは推定することに難しくない。

 

御神馬の鞍は総漆塗で磯に違杵の金紋を打ち、居木裏に「永禄3年(1560)2月日」の刻銘が見え、形状も上手に出来ており、和鞍の素晴らしさを感じることができる。

 

「鐙の端を挟んでいるため」馬に不慣れな乗り子は木柵にはみ出た指が当たり「痛い痛い」と叫んでいた。

 鐙の中に足を全て入れるのが正しい

 

 木曽馬が出場したが駆けることが出来なかった。

(養豚業経営者所有で趣味で飼っている)

 

小学校4年生の乗り子(最年少)

 

伝統を守って次の時代に繋げていく氏子の方々の熱意をひしひしと感じ、「やぶさめ神事」と言いながら「騎射」しないことが理解できたが、残念ながら「日本の馬」を使う難しさも痛感した。

 

※三重県 桑名市 多度大社5月5日の「馬上げ神事」で本来あった壁を撤去して行われた。事故を防ぐための方法を論じあったときに「日本の馬」を使用するという方法の有無があっかを神職に尋ねたところ「無かった」とのことであった。

 

 

引用文献

三河国一宮砥鹿神社誌

蒙古襲来絵詞(西尾市岩瀬文庫) 

 

 

              鈴 木 純 夫

 

 

 

       

2019年7月6日に、百舌鳥・古市古墳群がユネスコ無形文化遺産に指定された。拙著(過去と現在 そして未来の日本在来馬)を発行して4ケ月後のことである。これを機に自身の研究テーマを「馬を通して見るー3世紀以降の東アジアと倭国ー」に決め、現地取材・各特別展への参加・図録収集を行っている。

その一端を紹介する。

四条畷市歴史民俗資料館へは、2010年10月以降、現在に至るまで館長 野島稔氏にはお世話になっている。2012年6月に大阪府立近つ飛鳥博物館へ一度取材しているが、展示内容がかなり濃くなっているため改めて展示物で紹介する。

 蔀屋北遺跡出土の馬全身骨格

 骨格:遥馬(はるま)

 復元

(5世紀の四条畷の牧の様子)

準構造船埴輪

準構造船から馬を降ろす。

奈良井遺跡

  奈良井遺跡から出土された、日本最古の胃の結石。

(2020年にエルメス財団により銀座メゾンエルメス ホーラムで開催された「ベゾアール(結石)」シャルロット・デュマ展をきっかけに、1979年に奈良井遺跡の馬埋葬のそばから出土していた球状石製品が古墳時代の馬の結石であることが明らかになっった)

奈良井遺跡の馬から栄養分を持った結石が出来るということは、讃良(さららー四条畷周辺地域)の牧において渡来人が麦などの雑穀類を与えていた可能性が出てきた。(現在、和種馬でも乗用の力強い馬にするため、通常の餌に加え米糠(こめぬか)を与えることを考えれば、当時も乗用馬として使用するため牧草以外に麦を与えていたことは充分理解できる)

馬装した埴輪

ハミ

鞍(後輪ーしずわ)

   体高:約125cm(キ骨から床までの長さ)

讃良の牧はを考えるに、放牧のためでなく各地から集められた馬をヤマト王権に納めるために調教する牧であると言えまいか。

(御崎馬がいる都井岬の面積は約550haで、約100頭が、日本で唯一、15~20のハーレムを構成し周年放牧されている)

 

2023年1月24日(火)~3月19日(日)に九州国立博物館で行われら「特別展 加那」の図録 コラム/生駒山西麓の「牧場」に「蔀屋北遺跡出土の馬がモウコノウマ血を引く中型馬で」 と書かれているが、染色体数が66のモウコノウマに対し日本在来馬は64であるため誤りである。

モウコノウマ

御崎馬

 

取材    四条畷市歴史民俗資料館

      大阪府立近つ飛鳥博物館

      東京多摩動物公園

 

引用文献  四条畷市史 第五巻(考古編)

      四条畷市歴史民俗資料館発行資料

      特別展 加那 九州国立博物館 コラム/生駒山西麓の「牧場」岡寺 良氏

      在来馬の遺伝的背景 戸崎晃明氏

      牧の景観考古学ー古墳時代初期馬匹生産とその      周辺:馬の医療と治療ー四条畷市奈良井遺跡出土結石の再発見ー 野島稔氏

 

協力    四条畷市歴史民俗資料館館長 野島稔氏

 

イラスト  佐野喜美氏

 

 

 

 

 

 

         2023年12月30日

          鈴 木 純 夫

 

愛知県西尾市市制70周年・岩瀬文庫リニュウ―アル20周年記念特別展で、大永元年(1521)三河国幡豆郡饗庭郷(西尾市吉良町小山田)生まれの「松井忠次」の生涯が展示されている。

(資料)

通称は金七郎・左近尉、徳川家康のもとで三方ヶ原・長篠設楽が原など武田氏との戦において最前線に立ちその功績によって「松平姓」を賜り、大名・松平周防守の祖となった人物である。

天文20年(1551)12月、東条松平忠茂(甚太郎)に兄・甚二郎が織田氏と同調し謀反を企てたことに対し、忠茂を支持し今川義元へ謀反を報告し忠茂の同心となる。

弘治2年(1556)2月、忠茂の戦死に伴い甥・家忠を支持し、9月義元より家忠の名代として諸事異見を任された。この立場は、家康からも引き続き保証され、家忠および於次(のちの松平忠吉)の代の東条松平家家中に影響力を有した。

また、永禄7年(1564)以降は家康より東条城(愛知県西尾市吉良町)の城代・天正4年(1576)3月には牧野城(静岡県島田市)の城番を任された。

家康の駿河領有に伴い、駿河三枚橋城(静岡県沼津市)に入部し、同11年(1583)2月28日には河東二万五千貫文を与えられるとともに河東二郡郡代として河東二郡地域(駿河国境から富士郡吉原地域)に対する支配に携わった。同年に沼津三枚橋城主として6月17日に亡くなるまで、家康を「武」の面で支え続けた。法名・嵩輝

その後、忠次の子孫は譜代大名として老中2名を輩出するなど幕政を支え、丹波篠山城主・岩見浜田城主・などを歴任したのち、武蔵川越城主として幕末を迎えた。

元亀元年(1570)6月28日に近江国浅井郡姉川河原で、織田・徳川連合軍と浅井長政・朝倉景健連合軍の間で行われた姉川合戦図屏風(福井県立博物館所蔵)に、忠次が描かれている。織田・徳川連合軍の勝利となった。

 中図左に忠次が描かれている

姉川合戦図屛風としては現在唯一知られている。六曲一の中屏風というややイレギュラーな形状を持つ。躍動的なタッチ・遠近法を用いられ、徳川家康本陣が画面の前面に配され、特に強調されている。天保八(1837)丁酉三月 林義親画(花押)という落款がある。筆者の経歴など不明であるが浮世絵(錦絵)の武者絵や血みどろの絵などを意欲的に学んだ絵師であることがうかがえる。家康本陣の描写などから、岐阜県歴史博物館蔵「関ヶ原合戦図屛風」とはきわめて近い関係にあることがわかる。

この作品に示された姉川合戦像は、宝永2年(1705)に根岸直利が家康の前半生における4つの重要な合戦を描いた軍記「四戦紀聞」のうち「江州姉川戦記」にもとづいて構成されている。当初は織田軍と浅井軍との戦闘を描く右隻を伴っていたとみなす向きもあるが、この軍記とその家臣団の勇戦のみを画題とした作品であることが想像され、制作当初より一隻屏風であった可能性が高いだろう。制作主体や伝来などはいっさい不明である。(引用 図説 戦国合戦図屏風 学研)

 

戦国合戦図屛風(富山県個人蔵)

図:1

図:2

図:3

 

六曲一双 

この屏風は特定の合戦を描いたものではなく、戦国時代の合戦の持つ諸要素を組み合わせて図柄を構成した作品である。

図:3は、山砦をめぐる攻防・図:1は、平城の攻防戦が描かれている。大和絵系の絵師の手になる作品で、成立は江戸初期までさかのぼると考えられる。戦国合戦図屛風の遺存作品のうち、もっとも古い時期に属す作例として重要である。

(引用 図説 合戦図屛風 学研)

 

姉川合戦図は、267年も後に描かれてたものであるため、合戦そのものをを全く知らない時代の絵師によるものである。日本の馬・甲冑を纏った騎馬武者の使用する武器等々全く考えられない描かれ方がなされている。その一部を紹介する。

本多忠勝の名槍蜻蛉切の刃長:43・7㎝で柄の長さを含めても全長約:230㎝であるが、描かれている槍は徒歩兵が持つものである。

関ヶ原合戦図屏風 彦根城博物館蔵 狩野貞信(1597~1623)江戸時代前期の絵師 本多忠勝が乗る「三国栗毛」が、島津軍の火縄銃で撃たれ死亡したため、顎から落馬した

 

㉑:朝倉義景の臣・真柄直澄(?~1570) 戦場で常に大太刀を振って活躍した。姉川合戦で家康の士・➉向坂式部に討たれた。

 

真柄直澄が使っていたと言われる「大太刀」が、現在、愛知県名古屋市 熱田神宮 剣の宝庫に展示されている。

長さ:221・5㎝ 反り:3・4㎝ 元巾:4・5㎝ 重さ:6㎏ (写真撮影禁止)

天正4年(1576) 家康士・山田吉久が熱田神宮に奉納したと伝わる。

 

 

 

長巻(野太刀)演技、長さ約:75㎝ 全長約:180㎝

 

➉向坂式部

向坂は、匂坂(ともさか・こうさか とも訓んでいる)

初め六郎左衛門、また、常陸介と言った。家康の臣のちに井伊直政に属した。姉川の戦に朝倉の勇士・真柄十郎左衛門直澄を討った。(俗説に本多忠勝が討ったとするのは誤り)のちに放逐された。

 

引用   図説 戦国合戦図屛風  学研

     彦根城博物館蔵 関ヶ原合戦図屛風

     地歴高等地図  帝国書院

     戦国人名辞典  戦国人名辞典編集委員会編

     戦国人名辞典  吉川弘文館

     騎馬武者 サムライの戦闘騎乗  新紀元社

     拙著 過去と現在 そして未来の日本在来馬

 

     熱田神宮 剣の宝庫

 

     紅葉台木曽馬牧場

     甲州和式馬術探求会

 

     写真提供  林佳夫氏

 

 

                   鈴木純夫

     

 

 

 

 

2022年10月29日(土)、紅葉台木曽馬牧場にて,

直垂・水干を纏い、在来馬に乗って古の世界に、いっときタイムスリップした。

平安時代~鎌倉時代の演武が、在来馬に騎乗した単重ねの公家女房の篠笛の音と共に始まった。

公家武官夏束帯(平安時代)

大鎧をつけた武将

単重ねの公家女房と、狩り装束の武士

狩装束をつけた武士(鎌倉時代)

 

初心者たちが、在来馬に騎乗してお散歩。

 

武器を持って、ハイ・チィーズ

皆さん、とても「さまに」成っていますよ。

 

初心者ながら、弓力30㎏の弓を射る強者

 

晴れ渡る秋空は、絶好の乗馬日和。

参加者たちの笑顔・笑い声がいつまでも続き、非日常の世界を存分に満喫した。

 

今回の企画に参加された方々に、在来馬の存在と体験を認識して頂き、多くの知人語って頂ければ幸いです。

皆さん、お疲れ様でした。

 

協力 紅葉台木曽馬牧場 (時代考証・演武内容には関知し       

             ていません)

 

参考文献 日本服飾史 男性編・女性編

 

 

                

          令和4年11月2日

           鈴 木 純 夫

 御崎馬の「駒追い」が、10月1日(土)・2日(日)に行われた。

 江戸時代、高鍋藩の飛び地の串間では、毎年秋のころ「駒追い」が行われ、馬の検査を兼ねて2歳の牡馬を捕らえる行事として始まった。牡馬を牝馬20頭につき1頭くらいに調節し、その外の牡馬は払い下げられていた。

 現在は、寄生虫駆除・健康診断・保護活動などをするために、都井岬牧組合・宮崎大学獣医学部(40人・留学生5人・タイ・インドネシア・マレーシア・アフガニスタンを含む、)農学部を中心にして、串間市職員・岐阜大学獣医学部・岡山理科大学獣医学部・鹿児島大学獣医学部・監視員・一般等の約120人ほどが集まった。

 1日は、都井岬牧組合長・迫田幸四郎氏の指示により、小松ヶ丘・扇山を中心に、その外都井岬の山間部にいる馬達を見つけ、小松ヶ丘・扇山近くに設置された柵に追い込む作業が行われた。

動画1:駒追い参考

 2021年度の飼養頭数は88頭であった。

 3月28日~8月末に29頭(牡:17頭、牝:12頭)の子馬が産まれが、9月末に確認されたのは17頭(牡:11頭、牝:6頭)である。

 成馬の死亡があり、9月末で102頭にまで増え、今回の「駒追い」で柵に追い込めた数は72頭である。

動画:檻に入らない16歳の牡馬参考

 

 2日は、馬たちを檻に追い込んだ後、獣医学部生の実習を兼ねて宮崎大学獣医学部准教授・小林郁雄氏の指示のもと、採血・馬用駆虫剤・牝馬の糞採取・出産馬の乳採取・5頭の1歳馬にマイクロチップ挿入、液体窒素による焼き印・などが行われた。

 檻の中に馬を順次入れ、1頭づつ丸太で仕切る。

 

 マイクロチップ挿入~マイクロチップ認識確認測定器を使用。2015年度より実施され、現在のところ約半数の馬に埋め込んである。

 

 馬用駆虫剤挿入

 

 25gを採血(DNAなどの検査をする)

 現在、15~20組のハレムがあり、各組の系図作成が行われている。

 

 焼き印を押すためにバリカンで毛を狩り、22番の焼き印を入れる

 動画3:バリカン参考

 動画4:焼き印2番参考

 

 鼻の粘液を採取

 

 牝馬約40頭の糞採取(細菌・妊娠の有無を確認)

 

 母乳の採取(細菌などの検査に使用)

 

 事故もなく2日間の「駒追い」は終了した。

 

 宮崎大学獣医学部からは、毎年1人がJRA(日本中央競馬会)に採用されており、諸先輩方の中には著名な獣医として活躍されている方がいると聞いた。

 

 

 2011年7月の御崎馬の取材から11年が経過し、都井岬の様変わりに圧倒された。

 駒止めの門で通行料400円を支払う。

 

 一般社団法人串間市観光物産協会が運営する、軽飲食・土産店と「野性馬ガイド」2人が常駐している。

 有料で御崎馬の行動・歴史など実際に馬たちがいる場所で説明をしている。

 また、都井岬馬保護対策協会(県・市が出資)が設立され、3人が県外から移住してきた。

 毎日、原動機付きバイクで岬の中を巡視し、馬たちの体調の様子・道路に落ちた糞の処理・馬たちが道路を塞ぎ渋滞しないように気を配っている。

  馬たちが道路を塞ぐため渋滞

 

 喧嘩する牡馬

 グルーミング

 

 動画:グルーミング参考

 

 生涯学習の一環として御崎馬などを、小学4年生で「串間学」で学ぶ。

 

 灯台から見た都井岬。

 串間市の総面積は295・16㎢であるが、そのうち都井岬が55㎢を占める。

 

 ソテツの北限地である。

 

 扇山

 小松ヶ丘

 馬たちは主にこの二つの丘に棲息する。

 毒草:たますだれ

 毒草:ぼんてん花

 毒草:ゲンノショウコ

 

 他にもヒガンバナ・紫陽花は、馬たちは食べない。

 

 猿は馬の守り神と、鎌倉時代に中国からの信仰が入った。

 

 県道440号から車を走らせると、突き当りに、右・都井岬(馬の絵)、左・幸島(猿の絵)をみて驚いたことは、2011年8月のブログに掲載した。

 

 高鍋藩秋月家の城跡と墓が、西林院にあることがわかった。(ご住職は、常駐されていない)

 右:種実 中央:種守(種実の5男) 左:種実公室

 

 櫛間城跡の堀跡とみられる。

 

 秋月種実あきづきたねざね(1545~1596年)(筑前の守、剃髪宗闤)

春種の子、筑前大隅城主で属城に豊前岩石城があった、併有。はじめ大友宗麟と戦って敗け、居城古所山を失ったg、毛利元就の援助で所領を恢復、しばしば大友氏と戦ったが利がなく、一度は降参もしたが、再び反抗して島津義弘に合流し、筑前六郡、筑後四郡、豊前一郡を手に入れた。なかなかの策略家。天正15年(1587)秀吉の九州征伐のとき屈服し剃髪して降参。子種長(1567~1614年)同前。檜柴の茶入れと国俊の刀を献じ、服従を誓い本領を安堵した。慶長元年(1596)9月26日死す。52歳(武家事紀・上井覚兼日記・寛政譜、他)

 秋月種長あきづきたねなが(1567~1614年)(三郎、長門守)種実の子、天正15年(1587)6月7日秀吉から日向財部城(高鍋、児湯郡を与えられる(寛政譜)。16年閏5月従五位下長門守(高鍋藩実録)、8月5日領所日向新納院、櫛間諸県郡898町9段8(2,696,700坪、898,9ha)を安堵(秋月家文書)文禄元年(1592)朝鮮の役に弟高橋元種と朝鮮へ出動、8月平昌城主を捕虜とした(寛政譜)。慶長2年(1593)2月再び朝鮮へ出動、12月蔚山城救援に活躍(浅野家文書)、翌3年(1594)帰朝、外地にあること7箇年。同年8月秀吉の遺物大原実盛の太刀を受領(高鍋藩実録)。5年(1600)の関ヶ原の役には西軍に属し、7月近江瀬田橋を警備、ついで美濃大垣城の防衛に移ったが(真田文書・慶長見聞書)、味方主力が関ヶ原で敗戦の後、弟元種、相良長毎と共謀して同城の同士垣見一直等を斬って東軍に降った(9月18日)。戦後所領を安堵。19年(1614)6月13日死す、48歳(秋月氏過去帳・寛政譜・他)

その後、2代:種春、3代種信、4代:種政、5代:種弘と続く。

 

 

協力:都井岬牧組合

   串間市役所

   串間市商工観光スポーツランド 推進課 秋田 優氏

   宮崎大学獣医学部准教授・小林郁雄氏

   一般社団法人串間観光物産協会

   浅井元康氏

 

引用:戦国人名辞典(豊臣秀吉)

 

                鈴木純夫