琉球競馬「ンマハラシー」ポスターより
沖縄における馬の歴史を考えるとき、琉球馬と大和馬に呼び分けをしなければならない。(琉球馬ー宮古馬・与那国馬ー)
琉球馬は、明国(1368~1644年)が中国を支配し南京に都を置いていた時代、東アジアは朝鮮国・日本国・琉球国と称され、琉球国は盛んに明国と国交を行い、特に馬はその最たるものであった。しかし、慶長13年(1609)4月14日、薩摩藩島津氏は横山久隆に琉球国を攻めさせ国王尚寧を降伏させた。同年7月7日、徳川家康は島津19代当主家久に琉球国平定の功を賞し琉球国を与え実質的支配を認めたため、自主交易が不可能になった。
地歴高等地図より
明実録・正徳大明会典の記録に琉球国から馬の貢進を応安6年(1374)から始めており、多い時には983頭もの馬を買い付けておりその内訳は、子馬・牝馬・騙馬(去勢された牡馬)とある。牡馬の去勢習慣は大和では明治以降である(拙著「過去と現在そして未来の日本在来馬」2019年)。
沖縄では馬の生存期を11世紀~12世紀前半で、朝鮮半島を経由し・九州・南西諸島とされている。それは馬の依存体と共に出土した共伴物が中国産の白磁玉縁口縁椀、長崎県産の滑石性石鍋、鹿児島県徳之島産の甕があることだ。
馬歯骨の年代測定から宮古島への馬の渡来時期は14世紀と推定され、与那国馬の初見は文明8年(1477)正宗実録に比乃興国(いやなくに)とある。与那国島に馬の飼養がいつからされたか起源は不明であるが、漁師により島々を経由して移入されたと考えられる。
琉球王朝・察度王が即位した観応元年(1356)頃から中国・朝鮮との大交易時代を迎え、貢物として馬は重要な品物の一つであった。その後も琉球王府は江戸幕府への献上品に馬が一つ入れており、御用馬の生産を宮古島の農民に命じ王府から派遣された武士は馬に乗り宮古島を統治するとともに産馬を奨励した。特に宮古馬は従順で馬力があることから官馬として歓迎された(拙著「過去と現在そして未来の日本在来馬」2019年より引用)。
琉球において「競馬」の記録は、南島史学9号、比嘉洋子著に「1615年3月21日 火曜日 首里は祭日で闘鶏と競馬が見られる。時々雨と雷 北東風」」と、「冊封使行列から博物館における学びを考える」里井洋一著の「馬当方の久米公事長」に、徐葆光は「中山伝信録6巻の中で「蹀躞(ちょうしょうー歩様が側体歩であることー」トシテ行クヲ善シク、山路埼嵌ニシテ沙礫中ヲ上下スルモ顚蹶(てんけつ)ヲ見ズ、此レ即チ其ノ習フ所ナシナレバ、山ヲ上リ水ヲ渉ルニ即チ馳ス」と記している。
琉球競馬の歴史的な事象については「消えた琉球競馬ー幻の名馬「ヒコーキ」を追いかけてー」梅崎晴光著 (有)ボーインク 2012年11月21日に詳しい。
2013年3月2日・10日、沖縄こどもの国に於いて「琉球競馬・ンマハラシー」が70年ぶりに開催され、その後毎年開催されており、数えること21回目が、2026年1月18日に沖縄こどもの国で2部形式で行われた。
1部:琉球大学教育学部附属小学校4年生による「与那国馬と琉球競馬」の学習発表があった。
① 与那国馬:温厚でタフ・人間の話をよく聞く・懐が深い・足腰と蹄が強い・毛色は鹿毛のみ・背中に鰻線(まんせん)がある・冬と夏で毛の長さが変わる・日本在来馬の中で最も小さい馬である。
② 琉球競馬「ンマハラシー:琉球王国から1943年までの約300年間、沖縄には「ンマハラシー」と呼ばれる競馬が行われていた。かつて沖縄には200以上もあった馬場で、地域の農業行事の際などに開催され、出店もあわせて大変な賑わいをみせた。競技方法は2頭で行われるが全力疾走するのではなく、足並みの美しさ(速足ーはやあしー)・スピード感・リズム・真っすぐ進んでいるか・馬と騎手が美しく着飾っているかを競うと言うことを演技も含め精一杯発表した。
琉球大学教育学部附属小学校4年生
与那国馬は温厚なため女性でものれる
足腰がと蹄が強いため荷駄馬として使用もできる
サトウキビの搾汁にも使用された
琉球競馬「ンマハラシー」の説明
「馬と騎手の一体感」や「馬の足運びの優美さ」がポイントとなる
与那国馬の説明の中で残念なことは、日本在来馬の中で最も小さい馬は、愛媛県今治市野間馬ハイランドにいる「野間馬」である。
この間違いの原因は、与那国島東崎(あがりざき)牧場に設置された与那国馬説明パネルにそのように記載されているからである。
2013年4月26日に取材で訪れた際に保存会担当者(町役場職員)に、パネルの表記が間違っている旨を伝えたところ「ご指摘ご最もです」と間違いを認めた。
2016年に陸上自衛隊駐屯基地内に航空自衛隊移動式レーダー基地ができ、与那国島が様変わりした情報を得たため、2017年10月2日に再度取材に行った。
驚いたことは「立派な箱物」に対て「水田の耕作放棄地」や「豊かな自然が崩壊」していた。何故に「東崎牧場の与那国馬説明パネル」は2013年4月26日に訪れたときと同じ状態であった。
保存会担当者を訪ね指摘したが、暖簾に腕押し状態であった。
2部:「ンマハラシー」競技
本来は馬の歩様は速足の「側体歩」と着飾った馬と騎手により勝敗を競った。
唯一側体歩が出来るピース号(雑種)
日本在来馬8種の中で「側体歩」が出来る馬は北海道和種に限られ、他の在来馬「斜体歩」である。
21頭の馬(与那国馬・雑種)と30人の騎手が出場し、鞍数が100鞍以下は「わらばー部門」。それ以上は「うまんちゅう部門」。そして牧場対決(沖縄こどもの国・琉球美ら馬ホースクラブ&CaFe・うみかぜホースファーム・久米島馬牧場)の「シーの一番(結び)が、白色の襷・赤色の襷を身に着けた騎手により、芝生内のコース往復100mを走り勝敗を競う。
審判は4人の審査員と、白色・赤色が塗られた団扇を持つ観客が判定した襷の色の数で勝敗が決まる。
左から二人目は元JRA騎手・岡部幸雄氏
デモンストレーションが元JRA騎手・岡部幸雄氏(赤色の襷)と沖縄こどもの国騎手により行われた。
岡部氏:斜体歩(しゃたいほ)の与那国馬
沖縄の工芸品「花笠ーはながさー」と、沖縄のお盆に着られる「エイサー」を身に着けた騎手(中学3年生、4回目の出場)、馬は与那国馬
「わらばー部門」決勝
赤色の襷・優勝
「うまんちゅう部門」、(決勝の写真が不鮮明で掲載出来ず)
側体歩の動画
優勝:久米島馬牧場 久米島紬を着た騎手と与那国馬ムギ号
優勝者と与那国馬によるウイニングラン
生まれも育ちも久米島馬牧場、小学6年生。昨年に続き2連覇
優勝馬:与那国馬ムギ号と騎手の母親
京都上賀茂神社において古式競馬「競馬ーくらべうまー」が毎年5月5日に行われている。上賀茂神社で「競馬」が始められた確実な記録は、保延2年(1136)9月15日に鳥羽上皇の御幸による競馬10番とされている①(日本の古式競馬、長塚 2002年)。
早朝から古儀に倣って菖蒲の根合わせを始めとし各式典が執り行われ、午後2時ごろ竹に青柴が巻かれた埒を芝生の上に設け走路とする。上賀茂神社社領19国20荘園の馬たちが古儀を踏襲し儀式競馬が奉仕される。
19国と20荘園分布図 パンフレットより
埒と走路:著者撮影
左片(さかたの装束)
右片(うかたの装束)②馬 アジアを駆けた二千年図録より
先の大戦中でも「加茂競馬」は実施され、今年で890年になる。装束に於いても古儀倣っているため保存費用(修復など)がかかるため、その一つとして上記扇子の販売費などが充てられる。
使用されている馬は体高が低い競馬場の払い下げのサラブレット馬(愛知県西尾市、稲垣牧場乗馬センター代表・稲垣氏より聞き取り)
乗り手は「乗尻ーのりじりー」と呼ばれゴールから見て左側を左方、右側を右方と言い加茂氏一族の者に限られ、2頭によるマッチレースが10番行われる。1組目は古儀に倣い左方の美作国倭文庄(みまさかのくに、しどりのしょうー岡山県北部ー)が勝利する。他の9番レースは左方が先に走り出し、1馬身遅れで右方が出走し、その差が少しでも縮まれば右方の勝利となる。
左方・著者撮影
右方・著者撮影
右方・三河国小野田庄(みかわのくに、おのだのしょうー愛知県豊橋市石巻小野田町ー)
在来馬の活用を考える
「活用なくして保存はできず」と語った方は、40数年前に「与那国馬絶滅の危機」と言う新聞記事を読み、馬の知識や乗馬経験がないながら神奈川県から自給自足の生活をしながらでも「与那国馬」を守る思いで与那国島に来た。が、島民には直ぐには受け入れてもらえず、1頭の牡の与那国馬を手にいれるまで数年を要した。噛まれ・蹴られ・乗っては振り落とされながら、仕事の合間に馬と遊び続けていると、馬がいるだけでなんやかんやと人が寄って来ることに気づいた。そうしているうちに、ボランティアのみで運営している「馬広場」が出来上がった。ボランティア活動として働き「与那国馬」を愛した若者たちが与那国島を出て、久米島・石垣島で「馬広場」を開設し立派に独り立ちしている。2017年10月1日付けで「一般社団法人ヨナグニウマ保護活用協会」を立ち上げた「久野雅照ーひさの まさてるー」氏である。
第21回琉球競馬「ンマハラシー」に娘さんが騎手として出場したと言う母親が、「沢山の観戦者がいるけれど、ンマハラシーに出場する馬の牧場関係者は沖縄県外から来られた方ばかり。もっと沖縄県民自身が馬と関わり、触れ合う場所と機会をつくることが必要」と言われた言葉で納得と、「対州馬」のことを思い出した。
近藤誠二編「日本の馬ー在来馬の過去・現在・未来ー」の中で、8種の保存会が掲げる在来馬の未来を読み、「対州馬」が気になり、2024年5月中頃に目保ロダム馬事公園でインストラクターをされている方に進捗状況を電話で問い合わせた。
「前任者から引き継いだときに聞かされたこと、対馬市職員が書いた記事にギャツプがあり、対馬市市民に対州馬に興味がない。対州馬を知ってもらうため、軽トラックに馬を乗せ、小学校の出前授業に行っている」との返答が返ってきた。
体高123㎝、目保ロダム馬事公園で一番大きい 著者撮影
上記の「対州馬」に反して「与那国馬」は、昨年8月の町長選挙で元町議が現職を破り初当選した新町長は与那国馬に大変理解があり、「よなたんーよな=与那国、たん=端ー」の愛称を付け、保存と保護に積極的に取り組んで頂いている(久野雅照氏より聞き取り)。
2025年10月、山梨県鳴沢村の紅陽台木曽馬牧場代表・菊池幸男氏から、山梨県内にいる木曽系和種馬を含め在来馬の血統を持つ和種馬に「甲斐駒」の商標登録がされたことを知らされた。所謂「在来馬」がブランド化され、県内外を問わず利活用されている。
日本書紀に「甲斐の黒駒」や「聖徳太子が明日香宮から甲斐の黒駒に乗って富士山を一周して帰った」等の話がある。
黒毛馬の産出は容易ではないが、古の馬名がブランド化されたのは喜ばしいことである。
甲斐駒の活用
琉球競馬「ンマハラシー」は70年振りに再開されて以降、在来馬は「与那国馬」だけであるが、年を追うごとに盛大になり今や沖縄県の伝統行事になった。
日本古式競馬「競馬」は、サラブレット馬を使用しているが、加茂氏一族の努力により、890年もの長き歴史を刻んでいる。
日本各地にに残る「伝統的馬事行事」に、「在来馬」の使用選択しを持ち「利活用」されることを切に願う。
引用文献
①日本の古式競馬~1300年の歴史を辿る~ 長塚孝 2 002年1月1日 神奈川新聞社
②九州国立博物館開館5周年記念特別展 馬 アジアを駆けた二千年 2010年7月10日 九州国立博物館
③帝国書院編集部編 地歴高等地図 現代世界とその歴史的背景 2018年10月15日 帝国書院
④拙著「過去と現在そして未来の日本在来馬」2019年3月28日
⑤南東史学9号 ウイリアム・アダムス 琉球諸島航海日誌 1614ー1615年 比嘉洋子著(訳)1976年12月
⑥日本の馬 「在来馬の過去・現在・未来」近藤誠二編 2021年10月5日 一般社団法人東京大学出版会
⑦日本書紀 井上光貞・川副武胤・佐伯有清訳 2003年7月25日 中央公論
鈴 木 純 夫


































































































































































































































































































































