殷王朝ー紀元前17世紀~紀元前1046年
河南省安陽殷墟遺跡は、王朝後期(およそ紀元前14世紀~紀元前1046年)の都として20世紀初頭から現在まで発掘調査されている。
初代:湯王(とうおう) 夏(か)の啓王を滅ぼす。(紀元前1600年ごろ)
1期:第19代王盤庚(ばんこう)が安陽へ遷都 (紀元前14世紀)
2期:第22代王武丁(ぶてい) 殷王朝が最も栄えた最盛期(紀元前13世紀)
3期:第29代王祖庚(そこう)~第26代王庚丁(こうてい) (紀元前12世紀)
4期:第30代王帝辛(ていしん) (紀元前1046年、周の武王に滅ぼされた)
殷の馬導入経路
殷虚期には長城地帯からミヌシンスク盆地、西周早期以降にはミヌシンスク盆地から長城地帯に共通した刀子や短剣といった青銅器が広がる。殷墟でもこうした北方青銅器が副葬されていることは良く知られている。殷虚期の外来系要素として、馬首刀子と牛首刀子は北方的風格をもちつつも、長城地帯には西周前期まで確認されないので、北方風の殷文物の可能性がある。殷墟で3点確認されている鈴首刀剣は、北方青銅器と中原青銅器の両方をもつ李家崖文化(りかがいかぶんかー紀元前1300~紀元前800年ごろの青銅器文化ー中国の陝西省(せんせいしょう)北部から山西省西北部に栄えた)で出土するものである。
鈴首短剣
馬車が出現する殷晩期でも早い段階に北方青銅器をもつ文化にも戦車が保有されたことが判明し、殷の王族及び貴族層が他の長城地帯の北方青銅器をこの李家崖文化を通じて殷が入手していたかは定かではないが、車馬飾りの共通からみて、少なくとも両文化が強固な結びつきをもつことは確かである。
車馬飾り
殷虚遷都の要因は、黄河の東西で車馬のやり取りを行うためで、山西に古い車馬具があるのは中継点であったためと考えられる。
草原地帯中部から西北地区を経由して殷が馬を導入する場合、天山北路から河西走廊に入った後、途中で長城地帯に向かって、李家崖文化を介して馬を獲得するというルートが想起される。殷虚期には李家崖文化の北には西岔文化(さいさぶんかー紀元前1400年~紀元前1000年、内蒙古自治区中南部にあり青銅器時代晩期)が広がっており、草原地帯に属するこれらの文化のある地域で「馬」の飼育が行われるようになった。
馬具:銜と鑣(ハミとヒョウ=クツワ・馬の口に含ませて手綱をつける金具)
殷虚期の銜は金属製の割合がかなり低く、多くが有機質である縄や革で作られていたと推測される。
青銅製の棒状ハミ(ハミ身に捩じった表現が見られる)
この事例は実際に縄で製作されたハミが存在し、それが青銅で模写されたことを示している。
殷虚期4期には連結銜も出現しており、馬を操縦する技術が改良されている。
興味深いことに西方のミケーネ文化(ギリシャのペロポネス半島を中心に栄えたエーゲ文明の青銅器文明、紀元前1600年頃~紀元前1200年頃)でもこの時期に連結銜が出現しており、ステップ地帯の東西に近い時期に共通した馬具の改良が行われていたことになる。
殷虚期3・4期の方形鑣が出土し、周の鑣に連続する。
方形鑣1
方形鑣2
ペテロフカ文化(シンタシュタ文化から派生し後続した文化・紀元前2千年紀前半)で栄えた青銅器時代や、アラクリ文化(紀元前17世紀~紀元前13世紀・南ウラル~カザフスタン・西シベリアにかけての地域まで拡がった。
方形鑣は、棒状鑣、角形鑣が出現する以前の楯形鑣の系統に区分される。楯形鑣はウラル東部のシンシュタ文化、そこからカザフ草原地帯に広がった。ペテロフ文化やアラクリ文化で利用された戦車に伴う鑣である。シンシュタ文化やペテロフカ文化では円形や扇形、アラクリ文化では札形であり、全て骨角製であるため殷の方形鑣とは形状と材質が異なる。
殷・周の方形鑣には釘歯器と組み合うものや、釘歯を持つ方形鑣が存在する。
釘歯は馬の口元に向かって装着され、痛みで馬を操作する道具であるが、紀元前20世紀前後のシンシュタ文化などの楯形鑣にも内面突起が付加されており、やはり痛みで馬を操縦していたのである。つまり、殷の馬操縦の方法はシンタシュタ文化を起点として、草原地帯中部を経由して伝わったと言えよう。
殷虚2期では円形人面飾が釘歯鑣として組み合う可能性があり、玉製で実用的なものではないが、最も古い時期から現れる鑣が方形ではなく、円形であったことを示唆しており、草原地帯中部との連続性がより確かになったといえよう。
殷虚3期では円形鑣と一体になっていた。
釘歯器は、西アジアやコーカサスでは一体で鋳造され、草原地帯では骨角製である。殷代には貴人の馬に骨角製品を利用することは避けられていたようであり、有機質以外の貴石か青銅が用いられた。殷で車馬具の青銅化が進んだ理由の一つと推定される。
車馬具や手綱など引掛けたとされる弓形器は、しばしば北方青銅器と共伴する。
殷虚2期の墓からも同様のセットで出土しており、車馬導入と北方青銅器をもつ人々との関係を想起させるものとして重要であろう。
歯槽間ー銜・鑣が入るようになっているー
現在使われている和銜(わ銜ー和式馬術で使用する)
和銜を装着
車馬拡散の基点といえるシンタシュタ文化の車馬形状
殷が安陽殷墟に遷都した紀元前13世紀ごろ輻式(ふくしき)二輪の戦車が突如として出現する。
東西3.5×南北3.3mの長方形抗に二頭立て車馬1台と殉人2体を埋めている。
車輪、軸、轅(ながえー馬車のかじ棒に繋ぐ際に用いる木製の棒状器具)にあたる部分をあらかじめ堀り凹め、殺した馬を向かい合わせに横たえた上に二輪車を安置している。車体の木材は腐朽していたが輿(こし)の平面は長方形で、左右最大長1.61×前後最大幅1.03m、後ろの乗降口の他は木柵に囲われている。車軸の長さは3.08m、両端に直径1.5mの車輪を通し、輻(ふく―ホーク)の数は18本、両輪の間隔(軌間)は2.3m。輿から長さで2.6mの轅(ながえー馬車のかじ棒に繋ぐ際に用いる木製の棒状器具)がゆるくカーブしながら伸び、先端近くでハミ(横木)を渡し馬をつなぐ人字形の軛(首木ーくびき・馬を繋ぐため、車体の前に左右に伸びる棒)を結わえている。
殷の車馬に類似した事例は古くから指摘があるように、南コーカサスに位置するアルメニアのルチャシェンの物が挙げられる。
カザフスタンからモンゴル西部の岩絵
中国王陵区武官村北地では、40基もの祭祀抗の内30基に計117頭の馬が犠牲になっている。
そのうち93頭については、体高133~143cm、年齢は7~11歳が81頭、6歳が2頭、11歳以上が6頭、不明4頭であり性別は牡73頭、牝2頭、不明18頭と報告されている。
殷虚西区で発見された車馬抗や馬抗からは、朱砂(赤ずんだ砂)が撒かれ蓆(むしろ)で覆われる埋葬馬が確認される。
王陵区の婦好墓からは、長さ6.3cm、高さ2.9cm、の馬形玉佩が出土している。
頭部は、額から鼻筋にかけて弓なりの曲線を持つ兎頭といわれる特徴を呈し、甲骨文字の
と同じく目と耳が強調されている。頸部には鬣がみられ、ずん胴で四肢は短く尾は長く垂れ下がる。同様の表現は、青銅戈や青銅礼器に鋳込まれた族記号にも確認される。
甲骨文には犠牲となるウマを厩で養う記述がみられることから、ウマが導入当初から王権を維持する中核的な役割を担っていたことがわかる。
「甲骨文については後項目で述べる」
こうした埋葬馬や関連遺物が出土する遺構年代が殷虚2期を遡らないことから、この時期をもって本格的な家畜馬の利用が始まったと考えられる。
家畜化された馬の末裔(木曽系和種馬ー体高約140cm)
甲骨文字
甲骨文の「車」字も車馬の出現とほぼ同じ第22代武丁(ぶてい)期(第2期)に始まり、やや後れて青銅器の銘文(金文)にも「車」字が現れる。
車字・甲骨文
金文
いずれも上からみた車の形を象っているが、硬い甲骨にナイフで小さく字を刻む甲骨文は、字画を省略することが多い。金文の3列と甲骨文の③・⑤は「輿」を長方形で表し、金文の3例と甲骨文①・③・④は銜の両端を屈曲させ、金文の3例と甲骨文②・③は人字形の軛(くびきー馬を繋ぐため、車体の前に左右に伸びる棒)を表現している。
骨板1
右から6行目の第3字Aと第8字Bの「車」字が違っている。5行目第5字からのト辞は「甲午の日に王が水牛の狩りに行ったところ、小臣古の車馬が岩に当たって壊れ、王の車を御せる子央もまた堕ちた」という。つまり、小臣古の壊れた車をいうA字は、甲骨文④と同じ車軸が折れた形であり、子央が堕ちた車のB字は轅(ながえー馬車のかじ棒に繋ぐ際に用いる木製の器具)が失われた形である。
骨板2
左から2行目に「五日丁卯の日に王は獲物狩りするに、車が壊れた。馬は・・・・、亦た□は車に在り、□馬は来た・・」とあり、2行目の末字Cは甲骨文③と同じく轅が折れた形である。このように王はしばしば車に乗って狩猟に出かけたが、ときどき車両が壊れ、甲骨文の「車」字にはその壊れ方をあらわしていたのである。
甲骨ト辞の「車」の用例を見ると、田猟(でんりょうー日常的に殷王が狩りをするという意味であるが、田猟地は殷という都市国家が直接支配する20~30㎞の範囲)6件、人名ないし地名は3~4件、戦争はわずか1件、方国(殷代を中心に中原の中心王朝の周辺に存在した独立・半独立の地域政権や諸部族のこと)からの捕獲も1件であり、車馬が戦争で用いられることは少なかった。それは車が壊れやすかったことが一因であろう。
右から縦書きで「甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・・・甲戌・乙亥・丙子・丁丑・・・甲申・乙・・・」とある。これらは、エトで、六十干支の一覧である。
右から縦書き三段。中段は「癸己、トして牽(貞人名)負う。旬にトガなきか」とある。
癸(みずのと)のつく日にこれからの十日の吉凶を占う。甲骨文は殷王朝で用いられた都市の儀式用文字で、天下国家や道徳など後代の官僚の心得とは無縁である。儀式内容から、われわれはさまざまな論点を引き出すことができる(刻字甲骨 東京大学東洋文化研究所蔵)。
上記のように漢字が既に使われてはいるが、本来、殷の祭礼の場だけで用いられ、支配を及ぼした領域には普及していない。
殷王朝期には、いずれの資料からも「騎乗」の習慣が伺われなかった。
引用文献
・殷代の車馬導入経路 中村大介 「埼玉大学紀要(教養学部)」第61巻第1号 2025年
・中国の歴史 宇都木 章 監修 東京美術 2012年1月31日
・古代中国の考古学 岡崎 敬 著作 第一書房 2002年11月10日
・夏王朝は幻ではなかったー1200年さかのぼった中国文明の起源 岳 南 著作 柏書房 2005年5月25日
・中国古代の車馬 岡村 秀典 著作 馬・車馬・騎馬の考古学ー東方ユーラシアの馬文化ー 諫早」直人 向井 佑介編 臨川書店 2023年3月31日
・中国古代の馬文化 菊地 大樹 著作 馬の考古学 右島 和夫 監修 雄山閣 2019年11月25日
・中国の歴史ー東アジアの周縁から考えるー 濱下 武志 平㔟 隆郎 編 (株)有斐閣 2015年3月30日
鈴木 純夫




























































































































































































































































































