今年が最後の騎乗となった中学生3年生。(西から東へ)

 

砥鹿神社の由緒・縁起・祭神が「三河国一宮砥鹿神社誌」と砥鹿神社の社務所から頂いた「パンフレット」では内容の相違点があるため、「三河国一宮砥鹿神社誌」より「やぶさめ神事」の由緒のみを掲載する。

 

東から西へ

 

5月4日 神幸祭:古来本社の例祭として最も盛大に行われ来たもので、明治以降当日が例祭となったので、今は之に付随する「神幸祭」や「騎乗式」が特殊神事として執行され、またその前後の行事もなるべく古儀が遺存されている。

貞享(1684~1688)の縁起に、5月4日毎年式日大祭礼也従朔日至4日是日御神体八握穂社行幸供奉諸役数百人帯刀還御之時競馬十二疋矢武佐目 と記されている。即ち本祭は1日から4日にわたり各種の行事が行われたのであった。

明治4年(1691)の記事に 神主禰宜一同馬乗馬引弓負人一同御社内へ揃う、之に於いて御大祭を始め御行幸、八束穂社に於祭詞御還御終て流鏑馬あり。其の模様は御庭前鳥居の内外を輪乗りするの例なりしも、明治4年大祭より今日に至は、東西馬場を颿走するの例となりたり。

騎馬は古く神主家から2頭、他の社家から各1頭合わせて12頭を出していた。其の中神主家からの1頭はっ神子馬として何も載せずに牽く。現在も同じく12疋で、氏子12組中から1頭宛て出すこととなっている。乗り子は十歳前後の子供で、当時の冠り物は十人が竹編笠、1人は烏帽子(戸賀里家より馬の乗り子)を被ったが、明治4・5年頃から33年迄は一斉に烏帽子となり、33年(1900)以後は現在の如く全て竹編笠となった。次に流鏑馬神事のの馬駆けは、古く本社正面から入り三ノ宮の前を過り、二ノ宮の正面を外に出て、本社正面へと一巡したのであるが、明治4年からは現在の如く社頭を東西に駆けることになり、そのため当日県道を通行止め立札を建て且つ馬場両側に埒を設備することとなった。明治以前の大祭には、毎年吉田藩の代官1名が臨場する例となった。

騎乗式

日時:5月4日午後4時半

神幸祭・神輿還御後引き続き行われる。花火の音と共に騎乗開始となるや、美々しく飾られた12頭の馬上に、同じく晴れの装束を着けた乗り子が打乗り、片手に鞭、片手に「布引」を持つ(布引とは5色の紙を幅1・5cm、長さ110cmほどを繋ぎ合わせて巻いたものを数本を合わせて持ち、馬上より靡かせる様を形容してかく呼ぶ)。合図を待って一鞭当てれば、逸り立った馬は直ちに馬場(約200m)へ駆け出す。手にした布引は風に靡いて5色の波を作り、乗り子馬共にさながら絵巻物を展開した様である。馬場は鳥居前から八束穂神社前迄で、その間を各馬が3往復(もともとは6往復であったがいつしか現在のようになった)する。両側木柵を埋め尽くした観衆は1騎手(乗り子)ごとに手を叩き声を揚げ、或いは布引を手に得んとひしめいて暫くは取り合いで賑わう。布引を飾って置けば魔除けになるという俗信があるからである。このようにして12頭全部の騎乗が終わると、日も暮れかかり、終式の花火の音を合図に乗り子一同打揃って末社津守神社へ参拝し退却する。

もとは流鏑馬式であったことは古記録に窺はれるが、今は神幸祭の中で形式的な流鏑馬神事が行われるのみとなり、還御後騎乗式の名称で、単に馬場を往復するに止まっている。然しながら本社に於いては単なる武技の上覧に止まらず、別種な信仰的行事が之に付随しているようである。それは本祭が挙行の日時が5月4日ということで、直ちに想起されるのは端午の節句との関係であって1日の相違は認められるが、相互に相関連する所があることは推定することに難しくない。

 

御神馬の鞍は総漆塗で磯に違杵の金紋を打ち、居木裏に「永禄3年(1560)2月日」の刻銘が見え、形状も上手に出来ており、和鞍の素晴らしさを感じることができる。

 

「鐙の端を挟んでいるため」馬に不慣れな乗り子は木柵にはみ出た指が当たり「痛い痛い」と叫んでいた。

 鐙の中に足を全て入れるのが正しい

 

 木曽馬が出場したが駆けることが出来なかった。

(養豚業経営者所有で趣味で飼っている)

 

小学校4年生の乗り子(最年少)

 

伝統を守って次の時代に繋げていく氏子の方々の熱意をひしひしと感じ、「やぶさめ神事」と言いながら「騎射」しないことが理解できたが、残念ながら「日本の馬」を使う難しさも痛感した。

 

※三重県 桑名市 多度大社5月5日の「馬上げ神事」で本来あった壁を撤去して行われた。事故を防ぐための方法を論じあったときに「日本の馬」を使用するという方法の有無があっかを神職に尋ねたところ「無かった」とのことであった。

 

 

引用文献

三河国一宮砥鹿神社誌

蒙古襲来絵詞(西尾市岩瀬文庫) 

 

 

              鈴 木 純 夫