御崎馬の「駒追い」が、10月1日(土)・2日(日)に行われた。
江戸時代、高鍋藩の飛び地の串間では、毎年秋のころ「駒追い」が行われ、馬の検査を兼ねて2歳の牡馬を捕らえる行事として始まった。牡馬を牝馬20頭につき1頭くらいに調節し、その外の牡馬は払い下げられていた。
現在は、寄生虫駆除・健康診断・保護活動などをするために、都井岬牧組合・宮崎大学獣医学部(40人・留学生5人・タイ・インドネシア・マレーシア・アフガニスタンを含む、)農学部を中心にして、串間市職員・岐阜大学獣医学部・岡山理科大学獣医学部・鹿児島大学獣医学部・監視員・一般等の約120人ほどが集まった。
1日は、都井岬牧組合長・迫田幸四郎氏の指示により、小松ヶ丘・扇山を中心に、その外都井岬の山間部にいる馬達を見つけ、小松ヶ丘・扇山近くに設置された柵に追い込む作業が行われた。
動画1:駒追い参考
2021年度の飼養頭数は88頭であった。
3月28日~8月末に29頭(牡:17頭、牝:12頭)の子馬が産まれが、9月末に確認されたのは17頭(牡:11頭、牝:6頭)である。
成馬の死亡があり、9月末で102頭にまで増え、今回の「駒追い」で柵に追い込めた数は72頭である。
動画:檻に入らない16歳の牡馬参考
2日は、馬たちを檻に追い込んだ後、獣医学部生の実習を兼ねて宮崎大学獣医学部准教授・小林郁雄氏の指示のもと、採血・馬用駆虫剤・牝馬の糞採取・出産馬の乳採取・5頭の1歳馬にマイクロチップ挿入、液体窒素による焼き印・などが行われた。
檻の中に馬を順次入れ、1頭づつ丸太で仕切る。
マイクロチップ挿入~マイクロチップ認識確認測定器を使用。2015年度より実施され、現在のところ約半数の馬に埋め込んである。
馬用駆虫剤挿入
25gを採血(DNAなどの検査をする)
現在、15~20組のハレムがあり、各組の系図作成が行われている。
焼き印を押すためにバリカンで毛を狩り、22番の焼き印を入れる
動画3:バリカン参考
動画4:焼き印2番参考
鼻の粘液を採取
牝馬約40頭の糞採取(細菌・妊娠の有無を確認)
母乳の採取(細菌などの検査に使用)
事故もなく2日間の「駒追い」は終了した。
宮崎大学獣医学部からは、毎年1人がJRA(日本中央競馬会)に採用されており、諸先輩方の中には著名な獣医として活躍されている方がいると聞いた。
2011年7月の御崎馬の取材から11年が経過し、都井岬の様変わりに圧倒された。
駒止めの門で通行料400円を支払う。
一般社団法人串間市観光物産協会が運営する、軽飲食・土産店と「野性馬ガイド」2人が常駐している。
有料で御崎馬の行動・歴史など実際に馬たちがいる場所で説明をしている。
また、都井岬馬保護対策協会(県・市が出資)が設立され、3人が県外から移住してきた。
毎日、原動機付きバイクで岬の中を巡視し、馬たちの体調の様子・道路に落ちた糞の処理・馬たちが道路を塞ぎ渋滞しないように気を配っている。
馬たちが道路を塞ぐため渋滞
喧嘩する牡馬
グルーミング
動画:グルーミング参考
生涯学習の一環として御崎馬などを、小学4年生で「串間学」で学ぶ。
灯台から見た都井岬。
串間市の総面積は295・16㎢であるが、そのうち都井岬が55㎢を占める。
ソテツの北限地である。
扇山
小松ヶ丘
馬たちは主にこの二つの丘に棲息する。
毒草:たますだれ
毒草:ぼんてん花
毒草:ゲンノショウコ
他にもヒガンバナ・紫陽花は、馬たちは食べない。
猿は馬の守り神と、鎌倉時代に中国からの信仰が入った。
県道440号から車を走らせると、突き当りに、右・都井岬(馬の絵)、左・幸島(猿の絵)をみて驚いたことは、2011年8月のブログに掲載した。
高鍋藩秋月家の城跡と墓が、西林院にあることがわかった。(ご住職は、常駐されていない)
右:種実 中央:種守(種実の5男) 左:種実公室
櫛間城跡の堀跡とみられる。
秋月種実あきづきたねざね(1545~1596年)(筑前の守、剃髪宗闤)
春種の子、筑前大隅城主で属城に豊前岩石城があった、併有。はじめ大友宗麟と戦って敗け、居城古所山を失ったg、毛利元就の援助で所領を恢復、しばしば大友氏と戦ったが利がなく、一度は降参もしたが、再び反抗して島津義弘に合流し、筑前六郡、筑後四郡、豊前一郡を手に入れた。なかなかの策略家。天正15年(1587)秀吉の九州征伐のとき屈服し剃髪して降参。子種長(1567~1614年)同前。檜柴の茶入れと国俊の刀を献じ、服従を誓い本領を安堵した。慶長元年(1596)9月26日死す。52歳(武家事紀・上井覚兼日記・寛政譜、他)
秋月種長あきづきたねなが(1567~1614年)(三郎、長門守)種実の子、天正15年(1587)6月7日秀吉から日向財部城(高鍋、児湯郡を与えられる(寛政譜)。16年閏5月従五位下長門守(高鍋藩実録)、8月5日領所日向新納院、櫛間諸県郡898町9段8(2,696,700坪、898,9ha)を安堵(秋月家文書)文禄元年(1592)朝鮮の役に弟高橋元種と朝鮮へ出動、8月平昌城主を捕虜とした(寛政譜)。慶長2年(1593)2月再び朝鮮へ出動、12月蔚山城救援に活躍(浅野家文書)、翌3年(1594)帰朝、外地にあること7箇年。同年8月秀吉の遺物大原実盛の太刀を受領(高鍋藩実録)。5年(1600)の関ヶ原の役には西軍に属し、7月近江瀬田橋を警備、ついで美濃大垣城の防衛に移ったが(真田文書・慶長見聞書)、味方主力が関ヶ原で敗戦の後、弟元種、相良長毎と共謀して同城の同士垣見一直等を斬って東軍に降った(9月18日)。戦後所領を安堵。19年(1614)6月13日死す、48歳(秋月氏過去帳・寛政譜・他)
その後、2代:種春、3代種信、4代:種政、5代:種弘と続く。
協力:都井岬牧組合
串間市役所
串間市商工観光スポーツランド 推進課 秋田 優氏
宮崎大学獣医学部准教授・小林郁雄氏
一般社団法人串間観光物産協会
浅井元康氏
引用:戦国人名辞典(豊臣秀吉)
鈴木純夫




























































































































































































































































































































