新型コロナウィルス感染症COVID-19ゲホゲホ
 
水面下ではどの位蔓延してるのだろう?
 
感染の拡大を抑え込む事が出来るのだろうか
 
オリンピック開催までにある程度収束出来るのか?
 
終息宣言はいつ頃出せるのか?
 
経済的打撃はいったいどれほどまでに膨らむのか?
 
私たちの暮らしを一変させたウィルス感染症の脅威
 
収束が見通せないので不安が蔓延し、
 
壊れかけた人々がドラックストアーに押し寄せてるゲッソリ
 
大相撲、センバツ等の無観客試合など初めての試みが始まります
 
4月に予定していた中国の習近平さんの来日も遂に延期になりました
 
JR四国もインバウンドを収益の柱として挙げていただけに収益悪化は避けられず
 
今後の鉄道網維持にも影響があるかも知れませんね(◞‸◟)
 
桜の咲く頃には僅かでも希望ある情報がもたらされることを祈るばかりです桜
 
 
 
ご訪問頂きましてありがとうございます
 
今は忍の時期という事で・・・
 
昨年10月28日にJAうまの果樹部会で山口県を訪問した過去記事を紹介させて頂きます
 
松山自動車道を西へ向かっておりますバスDASH!
 
行先は後程に・・・
 
山口県周防大島の某所ですニヤリ
 
今治小松自動車道を経由して西瀬戸自動車道(瀬戸内しまなみ海道)へ
 
西瀬戸自動車道(46.6km)は芸予諸島の島々を縫って走っており、
 
無料区間の大島道路6.3kmと生口島道路6.5kmを併せると
 
自動車専用道路の全長は59.4kmになり、瀬戸内しまなみ海道と呼ばれています
 
備讃瀬戸をあっという間に渡り切ってしまう瀬戸大橋(13.1km)と比べると
 
距離も4.5倍で、じっくりと見所が沢山あるかと思いますが
 
なんといっても橋梁区間に歩行者、自転車、原動機付自転車の通行出来る道が併設されているのがすばらしいキラキラ
 
8:03
 
来島海峡大橋は今治と沖の大島の間を馬島と武志島の2つの島を橋脚にして
 
4105mの三連箱桁形式吊橋(三連橋)で魔の海峡を越えます
 
瀬戸大橋の南・北備讃瀬戸大橋とはまた趣の違った美しい風景です
 
みかん県東部からうどん県西部の瀬戸内海に広がる燧(ひうち)灘
 
東は荘内半島によって備讃瀬戸と隔てられていますが
 
西はこの来島海峡によって斎(いつき)灘と隔てられており
 
この海峡を国内外の大小さまざまな船舶が一日400隻以上通過します船DASH!
馬島と小島の間を「西水道」、馬島と中渡島の間を「中水道」と呼び、大型船舶はどちらかを通航します
 
船舶の安全な通航を確保する為に潮流の流向によって通航する経路を変更する「順中逆西」という特殊な航法に従って通航します
船が潮流に乗って航行する場合(順潮)の場合は、短く屈曲の少ない中水道を、潮流に逆らって航行する場合は、西水道を進むというもので、潮流の方向が北向きの場合は通常通り右側通行、南向きの場合は左側を通る形になり、こうした切替方式を採っているのは世界唯一であるそうな
 
画像は(株)しまなみよりお借りしました
 
中渡(なかと)島には日本初の潮流信号所が設置されました
 
来島海峡に浮かぶ島々には芸予要塞跡や村上水軍居城跡など見所満載
 
芸予要塞跡の小島には日露戦争で旅順攻略に使用した28センチ榴弾砲のレプリカもあるようなので是非とも行ってみたい!
 
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1988(昭和63)年5月14日 毎日新聞
 
来島大橋の起工式は1988年4月10日の瀬戸大橋の開通の約1か月後の5月15日に行われました
 
1973(昭和48)年の凍結から愛媛・広島両県は臨調の厚い壁にキリの穴を開け、伯方・大島大橋、生口橋の建設にこぎ着けたものの、生口島-大三島の県境と四国への上陸地点の来島海峡で立ち往生し、
 
15年の空白の後、1988(昭和63)年5月15日に起工されました
 

新尾道大橋 1999年5月 斜張橋

因島大橋 1983年12月 吊橋

生口橋 1991年12月 斜張橋

多々羅大橋 1999年5月 斜張橋

大三島橋 1979年5月 アーチ橋

伯方・大島大橋 1988年1月 桁橋と吊橋

来島海峡大橋 1999年5月 三連吊橋

 

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尾道-今治ルートには三連橋の来島大橋と伯方・大島大橋をそれぞれ1橋として、6つの島に7つの橋が架かっています

 

そして各橋の建造年には大きな開きがあって、最初に完成した大三島橋から全通までに20年もかかってるびっくり

 

本四橋のルート争いでは、激しい誘致争いの結果、1ルートに絞り込む事は出来ませんでした

 

1970(昭和45)年に新公団を設立して3ルート同時に調査設計に着手し、着工は調査結果と地元の受け入れ態勢が整ったルートから優先に行う

 

着工時期、優先ルート未定のまま、三ルートの建設を決めルート争いに終止符を打つ政治判断がなされました

 

1973(昭和48)年の秋に3ルート同時着工が決定し、11月25日にはそれぞれの地元で起工式も予定されていました

 

ところが

 

この年の10月にエジプト・シリア軍とイスラエル軍の間で第四次中東戦争が勃発

 

原油価格は一挙に4倍に跳ね上がります

 

国の経済政策は180度の転換を迫られ、総需要抑制が最優先政策となり、省エネが叫ばれます

 

企業や家庭へ石油と電力の供給制限がかけられます

 

物価は急騰し社会不安が広がりました

 

俗にいうオイルショックです

 

1960年代から続いて来た高度経済成長はこの石油危機で終わりを告げます

 

3ルート同時起工式の延期が僅か5日前に決定し、着工は凍結されました

 

この衝撃は計り知れなく、架橋は冬の時代に入ります

 

しかしこの凍結期間中に瀬戸大橋の坂出工事事務所では水中発破の技術を磨き、南備讃瀬戸大橋の7Aケーソンの設置に役立ちました

 

鷲羽山トンネルにおいてもこの間の削掘技術の進歩が4つ目トンネルの実現に結びつき、風光明媚な鷲羽山が切通し工法で削り取られるのを回避する事が出来ました

 

さて

 

本四架橋をどうやって凍結解除に持ち込むか

 

3ルート同時着工から一転して凍結されて再び一本化の問題が持ち上がりました

 

明石海峡大橋を今すぐに架ける技術は無い

 

尾道-今治ルートは他ルートに比べて経済効果が弱い

 

その結果、児島-坂出ルートが浮上しますが、今更一本だけという訳にもいかない・・・

 

他の2ルートは全通ではなく

 

これまでに準備を進めてきている3橋(大鳴門橋、因島大橋、大三島橋)を地域開発の為の単独橋として架ける

 

という1ルート3橋案のシナリオが出来上がります

 

しかし、狂乱物価はなかなか収束せず、田中内閣の蔵相に就任した福田赳夫は総需要抑制を堅持して凍結解除には至りませんでした

 

1ルート3橋案のシナリオで凍結解除の幕が開くのは

 

1974(昭和49)年末に本四橋3ルートの関係県選出議員が閣僚に顔を揃えた「橋内閣」と呼ばれる三木内閣が誕生してからの事になります

 

この凍結期間に、本四公団坂出事務所では水中発破の技術などを研修や実験を重ねて瀬戸大橋の施工への自信を深めていく事になります

 

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1974(昭和49)年12月、金脈問題で退陣した田中角栄の後を受けて三木武夫が首相に就任し組閣

 

首相三木武夫(徳島県)、蔵相大平正芳(香川県)、運輸相木村睦男(岡山県)、外相宮沢喜一(広島県)、通産相河本敏夫(兵庫県)、建設相仮谷忠男(高知県)

 

仮谷建設相は「1ルート3橋。名を捨てて実を取る」と着工を一本に絞って凍結解除を目指します

 

自分が建設大臣の間に凍結解除をやり遂げる事が郷土四国の為になるとの信念で、国会議員、関係知事をを個別に説得するが、徳島、愛媛、広島県の反発は強い・・・

 

「1ルート3橋は、これだけで終わりではない。経済情勢に応じて他の橋も順次着工していく」隣県で県議会議長同士の頃から親しかった愛媛県知事白石春樹にも情理を尽くして説得

 

仮谷建設相の熱意は徐々に浸透し、1ルート3橋で凍結解除への説得工作は急テンポで進みます

 

最後の難関は最後まで凍結解除に反対の副総理福田赳夫でしたが、経団連会長土光敏夫も本四架橋を早期着工して産業界に仕事を与える事が必要と後押し

 

1975(昭和50)年8月15日、「1ルート3橋で凍結を解除する。1ルートは第3次全国総合開発計画(三全総)で決める」と建設相仮谷忠男、副総理福田赳夫、国土庁長官金丸信の三閣僚会談で決定する

 

8月18日、「尾道-今治ルートの大三島橋の着工凍結を解除する。因島大橋は着工時期を検討する。神戸-鳴門ルートの大鳴門橋は年内着工を目指す」と木村運輸相を加えた閣僚会談で決定

 

12月21日 大三島橋の起工式

 

1976(昭和51)年1月15日 本四橋の着工凍結解除に奔走した仮谷忠男建設相が急逝

 

1977(昭和52)年1月 因島大橋起工式

 

そういった経緯を辿り、大三島橋、因島大橋と着工されていきます

 

1977(昭和52)年11月 なかなか決定されなかった瀬戸大橋がやっと三全総で本四橋の基幹ルートに決まります

 

1978(昭和53)年10月10日 瀬戸大橋起工式

 

1981(昭和56)年3月 伯方・大島大橋起工式

 

1986(昭和61)年5月 生口橋起工式

 

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8:12
サンライズ糸山手前から波止浜の今治造船(株)
 
造船業界の構造不況をバネに成長を続け、M&Aにより建造量では日本最大の造船会社に成長
 
大手造船会社が衰退する中、韓国の大宇造船海洋と現代重工業に次ぐ世界第3位のシェアを誇る
 
8:13
来島大橋の三連橋にさしかかります
 
小島はかつて芸予要塞の島でした
 
8:14
来島大橋は瀬戸大橋と同じ様に馬島と武志島を橋脚とした吊橋で来島海峡を跨いでいます
 
8:14
馬島には瀬戸大橋の岩黒島と同じ様な島民専用の馬島インターチェンジとバス停が設けられています
 
エレベーターで下りるのも一緒ですが、原付や自転車もエレベーターに載せられるそうな
 
馬島は周囲4kmの小島で、面積は0.5km²
 
人口は25人(平成22年)
 
アクセスはJR今治駅より大三島行きの急行・特急バスで約15分、馬島バスストップ下車(他にもバス便はあるようですが瀬戸大橋線の様な路線バスはないかも
バスとエレベーターで行く岩黒島(^_−)☆クリックシテネー
 
波止浜港からの定期航路もあるようです船DASH!
 
塩飽諸島の再訪前に馬島へも行ってみたいなぁ~
 
来島大橋は歩行者も通行できるので波止浜港から定期船で島に渡り、歩いて帰って来ようかな走る人
 
8:26
来島大橋の三連橋を渡り、大島、伯方島を通り抜け
 
伯方島から鼻栗瀬戸を跨いで大三島へ
 
大三島橋は昭和54年5月12日に開通した本四連絡橋の第1号
 
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昭和54年3月25日 毎日新聞
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大三島橋の開通した1979年5月には、工事中の因島大橋、伯方・大島大橋の他になお6橋が必要で、まだまだルートの貫通は見通しが立っておりませんでした
 
それでもなおルート貫通への第一歩として愛媛・広島両県と関係市町村は期待を寄せ、700人が出席した開通祝賀式は盛大に行われました
 
8:32
大三島から多々羅大橋を渡り生口島へ
 
生口島から因島へ生口橋で渡ります
 
大浜PAエリア 因島
 
8:42
因島から向島へ因島大橋を渡ります
 
西に広がるのは布刈(めかり)瀬戸
1983年12月に完成した因島大橋
 
12月28日に公開された男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎(第32作)にフェリー乗り場が登場
 
レオナルド熊さんとあき竹城さんの夫婦との再会シーンがここで撮られています
予告篇は⇒こちら
 
レオナルド熊さんはずいぶんと前に亡くなられましたが、あき竹城さんはあんまり変わってないみたいw
 
8:43
向島を縦断して新尾道大橋で尾道水道を越えます
 
8:48
JFE商事造船加工(株)
 
休止中の日立造船向島西工場跡で男たちの大和のロケが行われました
帆布と日立造船向島西工場跡地 (^_-)vクリックシテネ-
 
8:48
尾道水道を跨ぎ本州へ上陸
 
2018年の記事しまなみ海道より一部再掲させて頂きました(;^_^A
 
バスは山陽自動車道に入り、一路西へ向かいます
 
 
本日もお立寄り頂きましてありがとうございました
 
では、またバイバイ
 
次回へ続きます
 
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