日本列島を東西に貫く中央構造線

中央構造線は、私が住んでる四国中央市内でもすぐ近くを通ってますが、高圧の変成作用や構造の変形などの地殻変動に見舞われた大規模な変成岩帯です
 
変成岩への変化にともなって生み出されるのが金、銀、銅、亜鉛、硫化鉄などの金属鉱脈・・・
 
愛媛県新居浜市、および宇摩郡別子山村(現新居浜市)に広がっている別子鉱床群は中央構造線の帯状の範囲にあります
 
このあたりの地殻変動は複雑で、石鎚山脈と、その北側に法皇山脈が縦走しており、海岸線までの短距離の間に2つの断層があって、この間を吉野川の支流である銅山川が流れています
 
山中に産する鉱物を原石のまま、あるいは精錬を施して荷重を軽減しながら海岸まで運んで船で積み出す
 
別子銅山においては、法皇山脈を越えなければならないという地理的困難のある悪条件の中で、当初は人力で、やがて牛車道を作り、そして明治26(1893)年には鉄道を敷設しました
 
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元禄3(1690)年に別子の山中にて、地表に銅鉱石が露出しているのを見つけ、翌年別子銅山として開坑し、幕府の御用銅山として足尾、小坂銅山と共に発展していきます
 
開坑8年後の元禄11(1698)年には、年間産出量が1,521トンに達し、当時の世界一と言われています
 
それにともなう運搬の労苦は、断層越えを抱えた別子ではことのほか厳しく、江戸時代を通じ、牛車道が敷設される明治13年までは「仲持」と呼ばれる人力によっていました

山村文化1号8ページ 泉屋道と立川銅山道筋より 第1次泉屋道
 
当初は赤石山系の小箱越を経由して浦山に至り、天満浦(現四国中央市土居町)から船積みされていましたが、このうち浦山までの23kmを仲持が、浦山から天満浦までの12kmを牛馬が担いました【第1次仲持道(泉屋道)1691~1702
 
銅山峰南嶺よりまっすぐに新居浜に出なかったのは、銅山越(標高1,291m)の北側に西条藩領の立川銅山があった為で、別子銅山の経営にとって極めて不便でした
 
西条藩との折衝、幕閣への懇願が実り、元禄15(1702)年に、別子-雲ヶ原-石ヶ山丈-立川山村渡瀬を経て新居浜浦に至るコースが許可され、別子から立川までの12kmを仲持で、立川から新居浜浦までの6kmを牛馬での輸送となり、大幅に距離を短縮することが出来ました【第2次仲持道1702~1749】
 
寛延2(1749)年に立川銅山が別子銅山に併合されて、銅山越-角石原-馬の背-東平-立川を経て新居浜に至るルートに移行したらしい【第3次仲持道1749~1880】
 
愛媛県生涯学習センター
データベース「えひめの記憶」別子銅山と泉屋道
 
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今回もご訪問頂きありがとうございます
 
前回の② 東平街道をペルトン橋へからの続きになります
 
遠登志(おとし)から仲持道(泉屋道)を辿ってペルトン橋までやって来ました
※住友さんは江戸時代泉屋と呼ばれていました
 
時刻は午前10時54分、途中東端索道の中継所の遺構などを訪ねながら、直登ではなくつづらおりの仲持道を辿ってきました
 
第3次仲持道(泉屋道)は、ペルトン橋を渡って、小女郎川の右岸沿いに第三広場に至り、馬の背から銅山越を越えて南嶺の目出度町(めったまち)に至りますが、今回は橋を渡らずに辷り坂(スベリザカ)社宅通って、山の上にあった東平小中学校の方に坂を登って行きます
 
10:54 T
ペルトン橋分岐
 
今回は、ここで仲持道と一旦離れて東平に向かいます
 
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辷り坂(すべりさか)の社宅跡を通って東平マチュピチュに向かいます
 
 
今立っている閑散とした森の中は、かつては社宅が何層にも連なり、鉱山関係者や家族など3、800人が住んでいた東平地区の最初の集落で、辷り坂(スベリザカ)という地区でした
 
ここには郵便局もあり、東平街道をやって来た行商の人なども立ち寄る賑やかな集落だったようです
 
11:03 U
曲がり角になにやら立札がありました
 
辷り坂詰所跡だそうです
 
詰所とはいったい何をする場所なんでしょうかね?住友では各地に倶楽部という娯楽所も設けていたようですが…
東平地区の社宅は、明治35(1902)年の第三通洞の開通により、徐々に建設され始め、明治38~39年にかけて完成しました
 
一本松、柳谷、唐谷、第三、喜三谷、東平、辷り坂、尾端、呉木の9つの社宅がありました
 
 
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かまどの跡でしょうかね?
 
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社宅跡の植林の中、坂をひたすら登りますアセアセ
 
社宅跡はかなりの急斜面です
 
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娯楽場と病院跡の案内板がありました
 
2017年の元日には寄れなかったので今回は寄ってみましょう
 
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あのコンクリート橋の向こうに東平娯楽場がありました
 
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開設当時は2階建てで、昭和18年に朝鮮人労働者が増え、その収容の為に3階建てに改装されたそうです
 
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会社の給料日には、行商の人たちが新居浜から東平街道を上がって来て、日用品などを販売する場所にもなっていたそうです
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今となっては、この橋だけが当時ここに娯楽場があった事の証しかな
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川底にも丁寧に石が敷かれていますね
 
ペルトン橋の谷から標高で64mも上がって来ました
 
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娯楽場の向かいには保育園跡
 
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さらに坂を登ります
 
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病院跡の手前には配給所跡
 
配給所は後に東平生協となり、閉山までの62年間東平の台所として多くの人々に親しまれました
 
物資は下部鉄道と東端索道で索道基地まで運ばれ、インクラインを利用して配給所に運ばれたようです
 
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11:23 W
明治38年11月1日開設、昭和43年3月31日廃止
 
11:23 W
コンクリート製の門柱と塀のみが当時を偲ばせてくれます
 
11:25 X
ここから遠登志までは約1時間となってます
 
下りの行程ですが1時間とは
 
寄り道しないで歩けば早いですね
 
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西赤石山をはじめ、法皇山脈の尾根筋は冠雪しています
 
でも、上部鉄道周辺には雪が無いようです
 
11:26 Y
 
索道で到着した生活物資を荷揚げするために敷かれたケーブルカー
 
11:29 Y
第三通洞を利用して、別子山村で切り出された木材が運ばれて来て、ここから降ろすのにも利用されていたという事ですが、木材を索道でどうやって降ろしたのかなはてなマーク
 
11:30 Z
貯鉱庫と新居浜市街
 
かつてはこの谷を東黒索道(端出場が出来てからは東端索道)が東平と黒石駅(のちに端出場)を結んでいました
 
11:30 Z
 
手前が貯鉱庫で奥が索道基地
 
その間には選鉱所がありました
 
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アクリル板に描かれたラインと山容を重ねると上部鉄道が通っている場所が判ります星
 
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別子鉱山鉄道上部線と石ヶ山丈-打除駅間の索道が紹介されています
 
11:31
 
11:32
上部鉄道の切通しを走る蒸気機関車の写真に注目流れ星
 
断崖絶壁の切通しを抜けて角石原へ向かう蒸気機関車ハッ
前回2018年6月の探訪で、この上部鉄道の切通しの写真の左に巻く道が元の牛車道であるという考察(推論)を紹介しました
 
小野・想像論では、上部鉄道跡は元は牛車道であり、鉄道を敷設するにあたって、まず鉄道の上側に新牛車道を作った。そして、その牛車道を利用して元の牛車道に資材を降ろし鉄道を敷設する工事を行ったというものでした
 
そこで、新たに気になったのがこの小岩ハッ
 
元の牛車道を作る際に、なぜこの小岩を残したのかはてなマーク
 
前回の探訪で実際に切通しを巻いて牛車道が残っているかどうか外側を歩いてみました
 
この小岩の先辺りから道床部分は崩落してしまったのか、道はありませんでした
 
山側の岩に取り付くことでなんとか外側を巻く事だけは出来ましたが、小岩の確認を忘れてしまいましたショボーン
 
 
実は、既に小野氏らによって、岩の確認はなされているのですが、私も実際にこの目で見たくてたまりませんでしたw

正直に申し上げますと、今回の上部鉄道探訪はこの小岩を確認する事にあるといってもいいかもww
 
11:33
 
11:33
東平 採鉱本部跡(煉瓦の建物の右にありました)
 
煉瓦の建物は旧保安本部跡(現:東平マイン工房)
 
採鉱本部は別子山村東延地区からの移転当初は第三広場に設置されました(大正5年)
 
11:34
マイントピア別子東平ゾーンは冬期閉鎖中(12月〜2月)なので誰一人居ません
 
今でこそ、この東平まで県道47号と市道河又線を利用して車で乗り入れる道が出来てますが、当時はこれまで歩いて来た東平街道と索道のみが麓と繋ぐ道でした
 
11:35 ①
小マンブ
人車やかご電車と呼ばれる電車はこの中を潜って第三通洞に向かいました
 
11:37
誰かいるのかとびっくりびっくり
 
窓が鏡のようになってました
 
11:39 ②
索道基地と新居浜市街
 
明治38(1905)年黒石駅と結びました(東黒索道)が、昭和10(1935)年に短縮して、新しく出来た端出場へとルート変更(東端索道2,717m)されました
東端索道基地から新居浜方向への展望
索道基地から新居浜方面(上の写真と同じ) 昭和30年代
 
11:43 ③
大マンブ
 
プラットホームを出発した人車は、小マンブ、大マンブを潜り抜けて第三通洞へ向かいました
 
11:49 ④
第三広場
 
大正5(1916)年に嶺南の東延からここに採鉱本部が移転されました
 
この広場は第三通洞の開削で出た土砂で谷を暗渠にして埋め立てて出来たものです
 
11:50 ④
第三広場から第三変電所方面
 
11:51 ⑤
明治35(1902)年貫通、明治44(1911)年日浦通洞が貫通して3,838mになり、東平から別子山村にかご電車で行き来できるようになりました
 
また、端出場水力発電所のタービンを回す水も日浦からこの通洞内を通して、石ヶ山丈沈砂池まで導水されました
 
ペルトン橋から川沿いに遡って来た仲持道は、第三広場を通って銅山越に向かいます
 
11:51 ⑤
 
11:55 ⑤
第三通洞の左を第3次仲持道は銅山越へと続きます
 
登山道は途中で谷に沿う柳谷ルートと、尾根道の馬の背ルートに分かれますが、仲持道は馬の背ルートで銅山越を越えます
 
11:56 ⑤
第三広場は第三通洞の開削によって出た土砂で谷を埋め立てた暗渠の上に作られております
 
11:57 ⑥
 
11:58 ⑥
第三変電所から第三広場方面
 
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現在地は東平の第三広場
 
時刻は午前11時58分
 
計画では、午前9時にこの第三広場に到着して、引き続き仲持道を銅山越手前の角石原駅まで登り、上部鉄道跡を全区間歩こうかという予定でしたが・・・
 
3時間ほど遅れておりますので、ここから上部鉄道の中間駅である一本松駅へと向かう事にします
 
今回の移動区間 T-④
 
今回も最後までご覧いただきましてありがとうございました
 
では、また
 
つづく
 
次回は第三広場から上部鉄道の一本松駅へと駆け登り、上部鉄道の未踏破区間の第一岩井谷-紫石間を踏破して切通しの小岩を確認したいと思います