お立ち寄り頂きまして有難うございます
長くなりました![]()
今回で第4回目になります![]()
えんとつ山(標高144.7m)から生子山城址(標高300.47m)
、立川尾根をたどり、犬返(標高579m)のピークで鐘を鳴らし休憩![]()
そして前回、犬返の険を下り、三角点種子川山(標高538m)を経て石ヶ山丈の藪尾根に取り付き、石ヶ山丈沈砂池(標高729m)を探訪、百年以上前の産業遺産を目の前にして先人たちの知恵と技術力の素晴らしさ、仕事に対する思いが肌に直接伝わって来ました
次にどんな産業遺産が現れるのかと期待を抱きながら標高830mを超えて、上部鉄道の軌道跡から続く牛車道と尾根筋の交差する、登山道の要衝でもあるという石ヶ山丈分岐まで登って来ました
山根グランドを午前8時7分に出発して、現在時間は12時12分
左へ牛車道を行けば魔戸の滝の上部に出るようです
右へ行くと明治26年(1896年)に完成した日本初の山岳鉱山鉄道である上部鉄道が石ヶ山丈駅(標高835m)から角石原(標高1100m)までの総延長5532mを平均斜度18/1で続いております(100年以上前に蒸気機関車が走っていた道です)
尾根を真っ直ぐに登って行けば兜岩を経て西赤石山(標高1626m)に至ります
この時間から西赤石山へ行く事は無理なので右か左かという事に・・・
ここは次なる産業遺産を求めて上部鉄道跡探訪で右へ![]()
12:12 ⑦
上部鉄道へ向かって出発
12:13 ⑧
石ヶ山丈分岐から右へ牛車道を少し進むと煉瓦の溝(ピット)がありました
ここが石ヶ山丈駅の機関庫の跡のようです
牛車道から上部鉄道の軌道跡に自然な曲線で(同じ軌道のように)繋がっているようです
ここで現在でも定かにはなっていない問題がひとつあります
牛車道は上部鉄道のすぐ上(山側)を石ヶ山丈~角石原間を併走しますが、この上部鉄道の軌道跡も元は牛車道だったのではなかろうかという推論がアマチュア別子銅山研究家の小野氏によって唱えられております
現在のところ、未だその説を裏付ける資料が発見されていませんが、「新牛車道完成を待って鉄道工事に着手、新牛車道の下の旧牛車道を改良して上部鉄道を開通させた」
まさに目からうろこで、この説によってあらゆる辻褄が合います
上部鉄道の切通し
私もこの切通しの写真を見て角石原側から見て切通しを左に巻く牛車道が山肌に沿ってあり、そのカーブが鋭くて鉄道の軌道用に切通しをつくって曲線を緩くしたと思ってましたが、ではどうして上側にも牛車道が通っているのか・・・
そして、今回石ヶ山丈分岐から上部鉄道石ヶ山丈停車場への牛車道と上部鉄道の軌道の一致が疑問でしたが、探訪を終えてから氏の記事を目にして間違いないと確信しました(裏付ける資料はまだ出てきていません)
素晴らしい推論なのでリンクを貼らせていただきました
「小野・想像論」
(一番上のリンクから「次へボタン」をクリックしていくと最後まで全て表示されます)
12:14 ⑧
山側には山肌を押さえる土止めに高い石積が築かれてます
谷側には石積を何重にも積み重ねてこの石ヶ山丈の広大な平らな敷地を作り出しています
戦国時代のお城も真っ青になるような凄さが森の中に隠れています
12:15 ⑨
石垣で作られた平地は幅も広く、石ヶ山丈駅はかなり規模の大きな駅だったようです
明治32年の上部鉄道従業者はなんと216名![]()
ここはまさに別子銅山の大動脈だったはずです
12:16 ⑨
プラットホームの石積が残ってます
12:18 ⑨
プラットホームの中に煉瓦のくびれが・・・何だろう![]()
さらに進むと索道場に出ます
12:19 ⑩
煉瓦積の遺構
索道場の何らかの施設の跡ですね、索道の機械が設置されていた跡でしょうか![]()
12:19 ⑩
上部鉄道と下部鉄道は当初鉄道で結ぶ予定でしたが、標高差があり過ぎて索道で結ぶことになりました
最初に出来たのが明治24年完成の複式索道で長さ1585m、高低差680m、続いて明治31年にハリデー式単式索道が稼働し始めました
最初の複式索道が完成したのは上部鉄道の出来る2年前ですね
複式索道は上荷と下荷の重量の差に依って運転するもので、上荷と下荷の比率は1対4だったと住友別子鉱山史には書かれているようです
単式索道は電気を動力としており上荷専用だったとも書かれています(同)
明治26年8月に上部鉄道開通、3月には端出場(打除)~惣開間10461mの下部鉄道が開通しており、石ヶ山丈停車場(標高835m)と端出場の打除駅(標高156m)を索道で結び、上部鉄道と下部鉄道が結ばれ輸送量は飛躍的に増大し、筏津坑、東平の大斜坑などが相次いで開削され、大きく変貌したとのこと
ちなみに東平の第三通洞は明治27年3月から開削開始していますがその機材、煉瓦等はこの索道を使って上部鉄道に上げられ一本松停車場から東平へ牽かれた索道で下されたようです(明治35年第三通洞貫通)
12:21 ⑩
12:23 ⑪
軌道跡を少し進むと地獄谷があるはずですが・・・
12:24 ⑫
顕われました地獄谷です
上部鉄道には全長5532mの中に橋梁が22ヶ所、カーブが112ヶ所あるという
記念すべき第1号の谷はその名も地獄谷だ
12:24 ⑫
煉瓦の橋台のみが遺っています
谷に下りて越えますが変わった梯子だなぁ~
12:25 ⑫
降りづらい梯子でした(;´▽`A``
谷側から橋台を見上げてみると大きな石を使った石積が煉瓦の橋台をしっかりと支えます
あと少しで第一岩井谷ですが今回はここで引き返します
どうも帰りに牛車道分岐から石ヶ山丈分岐までの藪尾根で迷わないかと心配で、時間的に余裕が無いと6月とはいえ、あそこで日没を迎えると厳しい状況になってしまいます![]()

明治26年8月の開通から僅かに18年でその使命を終えて長い眠りについてます

別子銅山坑道断面図
第四通洞は明治48年掘削開始して大正4年に竣工
大斜坑は昭和35年に開削着手、昭和43年完成

また、牛車道においては、明治13年に完成し、明治27年廃止
明治24年に石ヶ山丈に複式索道が出来て、明治26年上部鉄道開通で明治27年に廃止となったそうですが、何かで索道に載せられない重量物の運搬用に近江牛を6頭残しておいたと読んだような記憶があります
また、上部鉄道の上を通る牛車道も、鉄道が故障した時の鉱石の搬出ルートを確保するという意味でも完全廃止は出来無かったのではないかと思いますので、牛車による運搬は止めたかも知れないけれど、道は残しておいたのではないかとおもいますが
以上、考察を加えた石ヶ山丈からの上部鉄道の軌道跡の探訪でした
今回も大変長くなりましたが、最後までみていただきありがとうございました
では、また
次回へつづく
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えんとつ山から石ヶ山丈へ
① えんとつ山へ へ
② 犬返へ へ




















































