早いものでもう10月になりました
天高くと秋晴れが期待されますが、またか!の台風25号の影響で、今日から天気が崩れるそうです
25号も猛烈な台風との事で、コースも日本列島が台風の右側になる最悪のコースを取りそう
被害が無い事と、これが今年最後の台風となる事を祈るばかりです
今回もご訪問ありがとうございます
前回の③ 岩黒島-下津井瀬戸大橋からの続きで、最終回になります
今から一万年前の旧石器時代には、本州と四国は陸で繋がり、瀬戸内海の大部分は湿原だったそうです
我々の祖先は、坂出市の城山、金山産のサヌカイト(讃岐岩)で武器を造り、鷲羽山から坂出への尾根伝いにナウマン象やオオツノシカを追っていたのかも
ルート上の羽佐島から旧石器時代のサヌカイトが多数出土したそうです
備讃瀬戸を歩いて行き来した生活は、内海に海水が浸入(縄文海進)して瀬戸内海が誕生する沖積世(約1万年前)まで続きました
鷲羽山一帯は、我が国屈指の遺跡や古墳があり、本四公団も櫃石島などルート上で、予備調査、本調査を行い、香川側で13遺跡、岡山側で21遺跡を調査し、百万点近い発掘品が掘り出されました
またまた話が逸れかかりましたが、私たちは約一万年ぶりに瀬戸内海を歩いて渡った訳ですね
かりもの写真 (奥村組)
下津井瀬戸大橋北主塔より鷲羽山トンネル南口
鷲羽山トンネル南口の際まで下津井瀬戸大橋のアンカー(橋台)になっており、トンネルを抜けると直ぐ瀬戸大橋上となります
8月26日 東屋展望台より撮影
トンネル真上の鷲羽山東屋展望台、は当初の計画ではオープンカット工法で削り取られて切通しになる予定でした
205mの鷲羽山トンネルを潜り抜けて児島インターを目指します
下津井瀬戸大橋の北主塔手前で児島2kmの標識を見かけたので、あと1.3キロくらいかな?
児島出口まで1km
この辺りでは、歩いている人をあまり見かけなかったかも
児島インターで瀬戸中央自動車道とはお別れです
誰一人写ってないのはインターの入口だからかな
児島ICから完成したばかりのJR児島駅まで歩きますが、途中の何処かで下津井電鉄線と交差した筈ですが、残念ながら踏切を渡った記憶も無い
実際に下電のナローゲージや電車を目にしていたら、絶対乗ってみたいという衝動が起こったはずなのにねぇ~・・・
見落としたのでしょうかね
当時瀬戸大橋の架橋を記念して、岡山県と香川県を会場とする博覧会が同時に開かれていました
岡山会場は、JR児島駅前の塩田跡地だったようですが、これも目にした筈ですが全く記憶がありません
会場内へは入場料が必要なので、おそらく迂回して児島駅へと歩いたように思われます
瀬戸大橋架橋記念博覧会、通称瀬戸大橋博'88
大人の当日券は2,500円
「会場の中にJR児島駅(仮称)」とありますので、入場した覚えはないけど最終的には会場内に入ったのかな
「駅を下りたら、そこは夢大陸」のキャッチ
素敵ですね
しかし、この会場からは瀬戸大橋との間に鷲羽山があるので橋は見えない
この事が影響したのかどうかはわかりませんが、大きな黒字となった香川県とは対照的に、入場者数でも50万人以上の差をつけられて赤字となったそうです
さて
児島駅から電車に乗り、茶屋町駅で宇野線に乗り換えて宇野港へと向かったと思われます
直島水道から宇野港に入港する宇高連絡船讃岐丸
宇高連絡船は、昭和25年の紫雲丸の一度目の沈没後に貨物便も含めて、上り航路と下り航路に完全分離されました
上り航路は直島水道、下り航路は葛島水道を航行します
1988年3月13日の青函連絡船最終日に宇高連絡船乗り納めに行ったときに描いた下手くそな地図
リンク⇒懐かしの宇高航路
アララ
屋根の上にもいっぱい人が立ってるぞ~
讃岐丸は、航路廃止前に一足早く観光船に改造されましたが、小豆島のオリーブをモチーフにしたピーコックグリーンから
JR四国色の水色に変更されています
改造前の讃岐丸 画像はウィキペディアより
観光船に改造後も定期航路に就航していたのか、それとも観光船として独自に就航していたのかはわかりませんが、この日は10万人を超える人が瀬戸大橋を歩いて渡ったので、折り返しコースの人を除いても帰路に着く人で宇高航路は大忙しだった事は間違いありません
讃岐丸以外の宇高連絡船はあと1週間で退役します
讃岐丸 1974年6月28日竣工、7月20日就航
確か宇高連絡船4隻の中では一番新しかったと記憶してます
1988年3月19日からJR四国の観光船とするための大幅な改造工事を行っている
1996年11月24日に退役、インドネシアに売却され現在はカーフェリーとして就航しているとの事
宇高連絡船は竣工年月や、船の大きさの関係で売却し易かったのか、1隻も残ってないのが今となっては寂しいですね
満員の乗客を乗せて宇野桟橋に接岸する讃岐丸
讃岐丸が接岸しました
次のネガフィルムをスキャンすると阿波丸になってますが、この辺りの時間経過は不明です
こちらは阿波丸
乗客が下船中のようです
阿波丸の外観はこんな感じ
1967年9月14日竣工、10月1日就航
船体の赤色は、阿波踊りの情熱を現しているらしい
阿波丸もインドネシアにカーフェリーとして売却されたという事です
私はこの阿波丸に乗船したものと思われます
宇高下り航路は上り航路より3kmほど大回りになり、大槌島の近くを航行します
夕波小波♪~
取舵いっぱい~
艫(とも)を大槌島に向けて高松港へと向かいます
昨年6月25日に犬島を訪れた帰りの「フェリーあさひ」から撮影(宇高西航路)
↑↑犬島からの帰路の記事です
この日は、選抜初出場の愛媛の宇和島東高校が準々決勝第4試合(午後5時12分開始)で宇部商と対戦
連絡船内でテレビ中継が放映されていたのを覚えております
翌日の準決勝で神奈川の桐蔭学園を延長16回で5-4で破り、決勝は東邦に6-0で勝ち優勝しました
準決勝第2試合を編集してyoutubeにあっぷしました⇒こちら
4時間余りのテープを編集して1時間26分 アナウンサーは西田善夫さん、解説はおなじみの鍛冶舎巧さんです(桐蔭学園の200人のブラバンも大迫力)
さてさて
阿波丸は高松港に入港します
高松港に着いた頃には、もうすっかり夕暮れが迫って来ておりました
手前の桟橋には伊予丸が接岸中です
後で新聞記事で確認したところ、この日は連絡船のラストサンデーだった為、最後の乗り納めをしようという人で、午後7時までの28便で乗船客が43,093人になり、年末年始の帰省ラッシュのピーク時を15,000人も上回る記録的な賑わいだったようです
時間は鷲羽山トンネル以降は記録が無いので判りませんが、午前10時15分に坂出駅を出発して連絡船で、再び青い国四国に帰ってきました
かりもの写真
青い国四国は国鉄時代のディスカバージャパンのキャンペーン
瀬戸大橋開通後は、JRで本州方面に行くには、高松にも宇野にも立ち寄る事無く、宇多津から本四備讃線でまっすぐに岡山駅へ向かいます
高松駅も見納めですね
ブリッジウォークの前日の4月2日には「瀬戸大橋開通記念全国サイクリング大会」と「健康マラソン大会」が午前と午後にわかれ、橋上で行われました
午前中は小雨、午後は曇天の中で、参加者は震えあがりながらも、瀬戸の海を眼下に健脚を競ったとあります
サイクリングに約5,900人、マラソンには約7,600人が参加したそうです
橋の上はさぞかし寒かったでしょうね
折返しコースは坂出北インターから鷲羽山トンネル北出口まで約15kmを1時間ほどで渡り、往復したようです(岡山側からもスタート)
児島インターから坂出インターまでの18キロと坂出北インターから水島インターまでの27キロの渡り切りコースと両側からの渡橋後の折り返しコースの合計4コースあったようです
この写真は
前回に報道写真として掲載したカラーの写真と同一ですね
記事によると、「午後零時10分に与島上空から岩黒島橋方向を望み、毎日新聞社ヘリから写す」とありました
やはり、正午頃の写真でした
参加者は10万3千人で、岡山側から49,956人、香川側から54,000人
香川が県推計というのは参加料徴収してるのにアバウトですね
岡山側は午前7時10分に鷲羽山トンネル南口で、香川側も午前7時50分に南備讃瀬戸大橋上で出発式が行われたそうです
私たちはかなり尻尾の方だったようですね
午後からは帰りの人でJR宇多津、坂出の両駅は大混雑とのこと
坂出駅では窪川発の上り急行「あしずり4号」が
2,000人余り積み残した(15時41分)とか
【後補足】
JR宇多津駅が大混雑という事は、予讃本線は既に付け替えられた新線に切り替わっていたのかなそういえば前日のサイクリング時に本四備讃線の試乗列車が橋を通過したと新聞記事に書いてあったっけ(LTEさんからも帰りは4Bのキハ40で橋を渡って坂出駅へ帰ったとコメントを頂きました)
4月4日の毎日新聞の記事ではブリッジウォークの記事の後に「瀬戸大橋では4日からJR本四備讃線(瀬戸大橋線)の試乗会が8日まであり、記念行事を終了。」とありました。
本四備讃線は4月10日までは開業していないので、2,000人積み残したという上り急行あしずり4号は高松行ですよね!ということは岡山からの渡りきりコースで四国に渡った参加者は高松から連絡船で帰るのか、それとも試乗列車で橋を渡って帰るのだろうかという疑問がブログを書き終えたのちに湧いてきました
4月3日に瀬戸大橋を運行していた列車は単なる試乗列車なのか、ブリッジウォークの参加者の送迎列車だったのかも謎です
そしてもし、既に新線に付け替えになっていたなら、①で書いた「付け替え前の旧線を通って坂出駅へ」というのは間違っていたという事になります
ブリッジウォークデーター
仮設トイレの数は岡山県301基、香川県400基、輸送バスも360台と208台ですごい数ですね
橋のほぼ中央の与島を境に分担運営したそうです
1987年夏
1988年4月3日に先駆けて前年の8月12日の南備讃瀬戸大橋の最終ボルト締結式を前に8月10日に工事現場が報道関係者に公開されました
記者たちは真夏の瀬戸大橋海上部9.4キロを昼食も含めて全行程6時間で初渡りしたそうです
国際航路の通る備讃瀬戸は50万t級の大型船が航行できるように海面から橋桁までが高くなっているので、四国に向けて上り勾配になっています
最後に・・・
3月31日、香川県坂出市の番の洲高架橋下に瀬戸大橋の工事で亡くなられた17人の殉職者慰霊碑の完成除幕式が行われました
最新最高の技術を誇っている現場でも事故は避けられないのですね
手元の資料では昭和62年8月6日現在での着工から発生した事故は68件で、犠牲者は15人との事でしたが、完成までの残り8か月で更に2人亡くなられています
ブリッジウォークに香川県は、昭和30年5月の紫雲丸事故の犠牲者の遺族114人と架橋建設工事の殉職者遺族17人に招待状を送ったが、ほとんどの遺族が姿を見せなかったそうです
1週間後の4月10日に瀬戸大橋は開通し、瀬戸中央自動車道、本四備讃線の全線が開通し、宇高連絡船は78年の歴史に幕を降ろしました
瀬戸大橋架橋史 通史・資料編
山陽新聞デジタル
大変長くなりましたが、最後までご覧頂きましてありがとうございました
では、また
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① JR坂出駅-7A南橋台 へ
② 7A-羽佐島高架橋 へ
③ 岩黒島-下津井瀬戸大橋 へ
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