分離壁と、パレスチナ難民キャンプ | * たびばな * 旅好き女子のあちこち歩き

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主に鉄道でヨーロッパ34カ国、世界57か国をぐるぐると駆け回り、とにかく歩き回った、充実した旅の記録です。いろんな人に出会ったり、いろんなものを食べたり、旅のワクワクを少しでもおすそ分けできれば嬉しいです。持ち物やルート、予算についても情報いっぱい。

2019年 1月。

 

イスラエルを旅行中、パレスチナ自治区内のベツレヘムに一泊。

 

イスラエルがパレスチナ自治区との間に建設した「分離壁」に疑問を呈するアーティスト、バンクシーのホテルが主催するウォーキングツアーに参加しました。

 

分離壁と難民キャンプを見学するガイドツアーで参加はひとり約 3,000円。

安くはないし「重そう」と少し迷ったけれど、もう無いチャンスだと思って。

 

…結果として、本当に参加してよかったと思ったツアーでした。

 

 

ツアーは 1日に朝と午後の2回行われていて、わたしたちが参加したのは午後の部。参加者は、世界各国から集まった10名程度です。

 

まずは、自身も難民であるガイドさんとともにホテルを出て、ホテルの前の分離壁に沿って歩きながら、分離壁の歴史を聞いたり、地図を見ながら壁の位置を見たり、壁に描かれた主なアートの説明を聞いたりします。

 

 

壁の隙間を開けようとする天使は、バンクシーの作。

 

 

 

 

トランプがネタニヤフ首相とキスをするアートは、その後ぬりつぶされたり、描きなおされてしまったそう。壁に手をつき、「お前に弟を作ってあげるからね(メキシコとの間に壁を建設する、というトランプの主張のこと)」 と言うトランプ、というアートも話題になりましたが、やはりセリフ部分や顔が塗りつぶされてしまっていました。

 

イスラエル側から消しに来るのかなぁ。

 

 

壁の各所にある見張り塔にはイスラエル軍の若い兵士が詰めていて、日々、ゴミをパレスチナ内に投げ落として来るそうです。

 

 

お菓子の袋などに混ざって黄色い液体の入ったペットボトルがたくさん散乱しているのだけど、それが、見張り塔の上から投げおろされる排泄物だと聞いて、本当に嫌な気持ちになりました。投げてくるのは、必ず壁の「こちら側」です。

 

イスラエルは徴兵制なので、すべての若者がいちどは兵士になる。

普通の若者たちが兵士として銃を持ち、こういう場所に派遣されてくるのです。

本人たちはふざけているつもりなのかもしれません。

そのことが、さらに嫌な気持ちさせます。

 

 

難民キャンプのゲート。大きなカギのオブジェがありました。

これは、難民たちの 「家の鍵」。

 

 

 

1948年、パレスチナの土地にイスラエルが建国。住んでいたパレスチナの人たちは一夜にして住む土地を失い、イスラエル軍に追い出されました。着の身着のまま家を追い出された人々はせめて家の鍵をかけて、その鍵を握りしめて逃げたのです。

 

その鍵は大事にしまいこんであったり、ネックレスにして肌身離さず身に着けられたりしながら、息子へ、その息子へと引き継がれています。もう、家は取り壊されているかもしれない。町ごとなくなっているかもしれません。だけど、鍵は 「いつか故郷に帰る」 という、彼らの思いの象徴なのです。

 

実はパレスチナに関係する何かには必ず鍵が描いてあり、またお土産屋さんにも鍵モチーフのものがたくさんあったので何だろう?と気になっていたのですが、ここで説明されてやっとその意味を知りました。

 


イスラエル建国、70年。ガイドさんは、ここで生まれた難民 2世です。

息子さんも、ここで生まれました。

 

当初は本当に 「キャンプ」 だったであろう難民キャンプも、今は手狭な地区内に家が建っていて、学校もあります。

 

 

パレスチナ自治区内にパレスチナ難民が住んでいる、という状況がわたしは最初よく分からなかったのですが、別の土地に移らざるを得なくなった方々は、ヨルダンやレバノンなど外国に逃れただけでなく、もちろん、パレスチナ自治区内にたくさん移住されたわけです。

 

だけど、職もなく、お金もなく、着の身着のままで逃げてきた方々と、もともとその地区に住んでいた方々の間には、いまも見えない壁があるんじゃないかと感じました。

 

難民の方に 「いつか故郷に帰る」 という気持ちが強いので、その土地になじむよりもキャンプに残り続けることを選んでいるというのもあると思います。

 

そんな難民キャンプはイスラエルの恰好のターゲットで、いまだに兵士による威嚇射撃などで命を落とす人が絶えません。不定期的に戦車で入って来て、無差別に射殺するんだそうです。小さな子供ですら。

 

 

イスラエル軍の手によって命を落とした子供たちの名前が連ねられた壁。

 


 

弾のあとが残る小学校のゲート。子供たちを守るために、いまでは小学校は一切窓のない、牢獄のような建物になっていました。

 

 

 

悲しい話を聞いていると、八百屋のおじさんが通りかかり、「パレスチナの美味しいバナナを食べていってくれ」 とみんなにバナナを配ってくれました。

 

 

 

重たい空気を吹き飛ばす、バナナ。

みんなありがたくいただいて、モグモグしながら歩きました。

 

ここにもこうして普通の生活があって、みんなバナナも食べるし子供も育てる。

 


ガイドさんのパワフルでエネルギッシュで、ときどきエモーショナルな話を聞きながら、いままで脳内で理屈として「理解」していたイスラエルやパレスチナのことが、感情と結びつくものとして新たに上書きされたような気持ちで、ツアーを終えました。
 

 

宿泊していた 「The Walled Off Hotel」 にはミュージアムが併設されていて宿泊者は無料なので、夕食に出かける前に覗いてみることに。

 



パレスチナ問題についてのバンクシーの作品がたくさん展示されているほか、パレスチナ問題に関するさまざまな資料をみることができました。

 

 

実際に使用された武器や、残された物など。

 

 

 

 

 

館内にあった電話。近くで展示を見ていたら鳴ったので出てみたら…

 

 

軍からの命令で 「いまから15分以内に町を破壊する。15分以内に家から出て行くように」。と言われました。当時、こんなふうに、たった15分で追い出されてしまったのか。そりゃあ、着の身着のまま出て行かざるを得ないよね。
 

 

世界では 「テロリスト」「平和な市民を狙う無差別殺人」 と報道されているパレスチナ側ですが、いままでの死者を並べると、パレスチナ側の被害者が圧倒的。しかも、その多くが一般市民です(戦闘員 811人、一般市民 865人、未成年者 526人)。

 

 

対するイスラエル側の死者のほとんどは軍の兵士(兵士 67人、一般市民 6人)。お金を持っていて、ガンガンミサイルを撃ち込んでいるイスラエルと、物資を遮断され、それでもどうにか兵士に抗っているパレスチナの構図がすごくわかりやすく見える気がします。

 

 

もちろん、数がすべてではないし、どっちが悪いなんて、わたしが簡単に言えることではないし、イスラエル側の理屈があるのもわかる。

 

だけど、そもそもパレスチナの土地にイスラエルが建国されたことについて、現在のパレスチナ人に非はないはずです。でも、イスラエル建国当初に「自治区」として与えられたパレスチナには、年々イスラエル人が入植していて領土を奪われていて、このままだと数年後にはなくなってしまうんじゃないか。

 

あまりにも、パレスチナ側の人権が無視され過ぎていると感じます。

 

 

わたしにできることなんかないのが悲しい。

すくなくとも観光客としてお金を落としていかねば。

 

夜は、パレスチナ料理のレストラン Abu Eli Restaurant に出かけました。

ホテルでパレスチナビールをすでに飲んできたので、ここでは、パレスチナワインを。

 

 

 

ヨルダンでもよく食べた、ひよこ豆のペースト、フムス(ホンムス)。

薄いパンに塗ったりして食べます。

 

チキンの串焼き(串から外した形で出てきました)と、ライスの添えられた肉料理(何の肉だったか失念したけど、ラムだったかも)。

 

 

 
サービスもさりげないけど感じよくて、良いレストランでした。

 

 

チベットにいったときも感じたけれど・・・

わたしたちは部外者で、どこまでいってもいろんなことをすべて理解することはできないかもしれない。助けになることなんてできないかもしれない。

 

でも、今回こうして得た知識を自分なりに咀嚼して、もっと勉強もして、ほんのささやかなことでも自分にできることがあるなら知りたいし、少なくとも、世界で起きていることに対して 「関係ない」 と思わずにいられたら、そんなことを思いました。