日本人の判官贔屓(好き)とよく耳にします。
判官贔屓と聞くとまあ、若くして不運や未練を残して亡くなった人といった意味なんでしょうが。
源義経や沖田総司なんかを思い出す方も多いだろう。
この判官贔屓という言葉自体が源義経からきていることをご存知でした?
義経が判官という役職だったことからきているようです。
一般的にはほとんどの方は不運なヒーローというイメージでしょう。
私も興味を持って調べてみるまでそうでした。
頼朝が人気のでた弟をやっかんで、自分の立場が心配になって殺害命令をだしたんだろうと…。
(勝手なイメージ・・・。)
でも掘り下げれば掘り下げるほど、「どうも違う」という気持ちになりました。
まず、長子が一番!というあの時代ちょっといい気になって、兄の指示を聞かない勝手な行い、言動。
次にどうも「源義経」と呼ばれていた人は複数いて、一の谷の戦いで崖から奇襲をかけた人は、私達の思っている「源九郎義経」ではないらしいのです。
奇襲攻撃が得意な義経は違う人。
「あれっ?あの一の谷の戦いで名を揚げたんじゃなかった?」
最後に頼朝の怒りを買ってからの行動が今ひとつ美しくない!
急いで鎌倉に謝りに帰ったが、鎌倉に入れてもらえず、満福寺お預けとなり沙汰を待っている間、
かなりびくびくだったらしいし、有名なお兄様許して下さい手紙「腰越状」は、
弁慶に下書き書かせてるし、内容はかなりカッコ悪い。
こんなに命乞い・謝罪するなら今迄の言動はなんだったのか?!
自分の言動には責任持たなきゃ!と思ってしまう。
まあ、歴史はいろんな資料の断片を繋ぎ合わせて想像していく楽しさがほとんどなので、
信憑性も薄いし個人的解釈が大きいので、意見も賛否両論でしょうが。
義経ファンの方、ごめんなさい。
個人的見解なのでお許しを。 御興味のある方は是非満福寺にある「腰越状」を観に行って下さいませ。