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毎日気になる最新のニュースをチェツクします。

★自民党を変えなければならない

 

裏金問題で、自民党は変わらなければならない、、、、、

と言ったのは岸田首相です。

しかし口先だけで、変わる気全くありません。

 

石井紘基議員が刺殺された事件を覚えているでしょうか???

石井氏はこの自民党の裏金問題を追及していて、殺されました。

お金に関してこの世で処分しなければならない連中は

●自民党国会議員

●財務省

●経団連

●御用学者

これらの連中の言いなりになって、ウソを国民に垂れ流す

●マスゴミ  ですマスコミではありません。

これらを追放処分しないと日本国民の幸福はありません。

いつまでもこれらの連中の奴隷です。

 

★日本の国会議員

 衆議院議員   465人

 参議院議員   248人  合計713人

 この713人全員追放処分しましょう。

 

この議員たちの報酬と待遇は、世界第三位です。

その給与 年額1552万8000円一人あたりです。

賞与は  年額635万円です。

合わせて毎年2187万8000円受け取っています。

2187万8000円を713人の国会議員が毎年、もらっています。

 

そしてあのマスゴミは、国会議員の年収を報じるとき

2187万と報じます。

ここまでは事実だからいいのですが、ここから先をマスゴミは報じない。

 

なぜかというと裏金だからです。

でももらっていることには違いない。

 

あの2187万8000円の他に、国会議員は裏給与をもらっている。

裏がつくからあまり表に出してはいけないお金です。

人に知られてはまずいお金です、でももらっているのは事実です。

それを正直にマスゴミは伝えない。

 

★国会議員がもらう裏給与

 

●文書通信交通滞在費  年額1200万円

 今は調査研究広報滞在費という。

 領収書不要

●立法事務費  年額780万円

 使途の公開不要

 

以上が公費として一人当たりに支給されます、すべて非課税です。

領収書も使途の公開も不要、、、それにしては金額が大きすぎる。

裏給与合わせて4167万8000円という巨額の給与を、自民党の

国会議員は毎年もらっているのです。

世界第三位、、、すごいですね。

これは上場企業の社長並です、自民党国会議員は全員上場企業の社長並の

給料をもらっているのです。

 

正確に言うと上場企業の社長はもう少し多いです、4676万円

これだけで驚いてはいけない、まだまだあります。

その分を足せば、4676万円をはるかに上回る。

この他に政党交付金というのがあるんです。

このお金は国民一人当たり250円で、年間315億円が各政党に配られます。

 

導入されたのは1994年ですが、日本共産党はこれを受け取っていません。

だからその日本共産党分は、他の政党に分配されています。

その分は国民から取らなきゃいいのにね、、、、

しっかり国民からとって、その分他の政党と分け合ってもらっている。

 

この他、まだまだ自民党の連中には、経団連傘下の大企業から

年間55億円前後の賄賂が入っています。

だから主な政策は、経団連の言いなりです、そのために自民党に

金を渡しているのだから55億円も、、、、

 

こういう裏金を追及していて殺されたのが、石井議員でした。

政党活動費も特別会計もみんな自民党の裏金です。

裏金だから、使い道は明かせない、真っ黒な金です。

 

国民の血税である政党交付金をもらっている政党が、政策活動費と

名付けさえすれば、政治家に対していくらでもお金を渡すことが

出来るという仕組み、それは合法となっているが

合法なら何をやってもいいというのだろうか。

 

選挙のときだけ実現する気もさらさらない公約や耳障りのよい

スローガンをならべるだけ、、、、

こういう奴らに私たちの血税は、無駄に使われているのです。

 

自民党は外交問題や内政に至るまで米国の言いなり

税制や労働法制は経団連の言いなり

国民の声どころではない、、、、

そういう仕組みが出来上がっているのです。

 

自民党を変えなければならない。

なんと虚しい言葉でしょうか、、、、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

★谷夫人の挺身ありて

 

鹿児島を発った薩軍の第一の攻撃目標は、鎮台兵の守備する熊本城です。

大雪の中、出陣する薩南健児一万三千人

これを迎え撃つは熊本鎮台兵

 

薩軍にとって最初に熊本城を奪取することが、勝利へつながる

最善の道であったからです。

その熊本城を守るのは、精兵と兵器をすぐった熊本鎮台兵です。

これが開戦の初夜に陥落すれば、その衝撃は計り知れない。

 

この熊本鎮台を守る熊本鎮台司令長官は、谷干城

その谷干城は、後年次のような手記をしたためている。

【我の人となりしは、わが父とわが師とわが妻の恩なり】

 

彼はまた人に向かって

【余の最も恐るるは、天子と地震とわが妻なり】

とよく言ったと伝わる。

 

その妻の玖満子は、熊本城籠城の際、身を挺して内助の功を

発揮したといいます。

戦闘員以外は、朝晩は粟がゆ昼は粟飯と定められていた。

 

その粗末な食事を補うため、砲声が間遠になった頃合いをみて

幕舎の外に出て、野蒜やハコベなどの野草を摘み浸し物などを

先頭に立って玖満子は働いていたという。

 

ある日の夜半、将校夫人たちは、大きな荷物を背負った

泥だらけの姿で幕舎に現れた玖満子を見た。

荷物はすり鉢、すりこぎ、など道具を集めたもの。

それは彼女が単身、塀や土塀を乗り越えて、城外の焼け残りの

家からそれを失敬してきたのだという。

 

それは以前、もち米など特別な配当が許されたから、皆で

彼岸の牡丹餅を作ろうと発案し、道具は何とかすると言っていた。

それがまさかそのような手段で、調達してくるとは、、、

 

「いざとなれば、泥棒をしてもうまくやって行ける自信がつきました」

と屈託なく笑っていたという。

夫人たちの手で作られた牡丹餅は、本営の将校や部下たちにまで配られ

彼らの士気をよみがえらせた。

 

熊本城籠城は、五十四日の長きに及んだが、やがてそれも山川浩中佐の

決然たる急進によって解放されました。

戊辰戦争当時は、山川大蔵と称し会津藩を率いて彼らと敵対しました。

その山川隊を谷は、諸将校を以て迎えました。

 

【石なれと  固く守りし甲斐ありて

  今朝 日の御旗 見るぞうれしき】

 

官軍の入城を見て詠んだ谷の歌です。

谷は明治四十四年七十五歳でこの世を去りました。

 

 

熊本城は加藤清正が築いた天下の名城

そこに殺到する薩軍部隊

十九日この戦役の将来を暗示するような事件が起きました。

それは熊本城天守閣の突然の炎上です。

そして天守閣に集積されていた、籠城一か月に相当する

兵糧や薪炭がことごとく灰になってしまったのです。

 

天守を焼いた火の粉は城下に飛び火し、城下を焼き尽くした。

この事件は、市民には災難であったが、籠城軍には

薩軍が拠るべき遮蔽物を取り払ってしまったという意味で幸運だった。

焼け野原と化した城下を舞台に繰り広げられる、熊本城攻防戦。

 

★天守閣炎上の謎

 

明治十年二月十九日、午前十一時四十分ごろ

熊本鎮台兵が籠城していた熊本城の天守閣付近から突然

火の手が上がり、折からの強風にあおられ火は瞬く間に

城下に飛び火し、市内の中心部を焼き払った。

 

出火の原因は未だ謎である。

この火災により薩軍は、天守閣という攻撃目標を失っただけでなく

籠城軍の銃撃から身を避ける、遮蔽物をも失った。

これを知った西郷は、自分の計略もこれまでと、いたく落胆したという。

天守閣炎上は、案外籠城軍による戦略であったかもしれない。

 

 

城は陥落しなかった。

天守を焼失し食糧も不足、焼け野原となった

熊本市内にあり、三千余りの鎮台兵は城を死守したのです。

熊本城五十二日間の鎮台兵の籠城戦は、窮地に陥るも薩軍の猛攻に堪え

みごとに戦いぬいたのです。

 

やがて薩軍は、兵力の大部分を田原坂方面に移動

十七日間の死闘は山野を血に染めた。

 

★田原坂

 

田原坂は高瀬から植木に至る中途の小丘陵である。

標高も最高百メートル足らずで、地勢的にさして天険というほどではない。

尾根伝いに羊腸のようにくねった二キロほどの切通の坂道があり

これを田原坂という。

 

この坂道は加藤清正が、熊本城防衛の北の要地として、切り開かせた

守るに易く攻めるに難たい地形となっている。

 

●征西戦記稿

 

【田原坂の北たるや、外たかく内低く、あたかも凹字形を成し坂勢峻急

加うるに一捗一降の曲折を以てし、坂の左右は断崖障壁にして茂樹灌木

これをおおい、うっそうとして昼暗く誠に天険となす】

 

坂道は凹字形を成し、その両側は五、六メートル高い土手になっている。

薩軍はここに拠り、下から攻めあがる官軍を悩ました。

熊本城に通じる道のうち、この道だけが唯一大砲を引いて通るだけの

道幅がある。

 

だから何としてでも官軍はここを通らねばならなかった。

四日から官軍は田原坂方面を主攻

そして両軍主力を投入して、血みどろの戦闘が連日続けられたのです。

 

雨はふるふる人馬は濡れる、、、と唄われるように

田原の戦闘では、よく雨が降った。

ときとして豪雨にもなった。

 

この雨は薩軍に禍し、薩軍は雨に弱い先込め銃が多く

ただでさえ劣弱な火力を一層貧弱にした。

薩軍に困るもの三つあり

一つに雨、二つに赤帽(近衛兵)、三つに大砲、、、と歌われたくらいです。

 

官軍が田原の戦闘で費消した小銃弾薬は、一日平均三十二万発

多い日には六十万発にも上ったといいます。

これは日露戦争での旅順攻撃の三十万発を上回る驚異的な数字です。

 

田原の戦場では、両軍の銃火が行き交い空中で衝突する行合弾なる

現象も生まれたといいます。

戦後この地から行合弾が数多く発掘されています。

 

両軍の激戦によって、田原坂丘陵一帯は、小銃弾によって

草木はなぎ倒され、さながら歯ブラシのような形状を呈していたと

言われています。

両軍合わせて四千人以上の死傷者を出した田原坂をめぐる薩官の攻防は

西南戦争の天王山ともいうべき戦いであった。

 

●佐川官兵衛

 

西南戦争では、旧会津藩士 佐川官兵衛も戦死しています。

佐川は鳥羽伏見の戦いで、徳川軍の先頭に立って薩軍と戦い

会津戦争でも薩長軍と対戦し、ここに三度薩軍と戦い

壮烈な戦死を遂げました。

 

●山川浩

 

熊本城に入った山川は、その後も人吉から都城方面の戦いにも参加

宮崎、佐土原 高鍋の戦いでは、戊辰戦争での恨みを晴らすかのように

戦ったという。

 

★薩軍討滅に燃えた軍人たち

 

同じ鹿児島県人でありながら、官軍として薩軍討滅に燃えた人たちがいる。

川村純義、野津鎮雄、樺山資紀、黒田清隆、大山巌、川路利良、西郷従道です。

 

その急先鋒が川路利良です。

●川路利良

 

 明治九年十二月末、東京警視庁の大警視、今で言うなら警視総監

 川路は、部下二十名余を私学校に密偵または離間工作者として送り込む。

 その出率にあたっての訓示

 「私学校徒は、私怨を晴らすために殺戮しようとするものだから

  六千名の警官はこれに対し、奮励して国家を保護すべきだ。

  また、君ら外城士は、城下士から牛馬視されたことを思い出せ。

  独立自助の精神を以て城下士の下僕視される状態から脱せよ」

 

 川路は薩摩の郷士身分の出身である。

 薩摩藩では士族を大別して城下士と外城士があった。

 城下士は島津家に直属する者であり、外城士は常に彼らから

 卑しめられ絶えず屈従的な扱いを受けていた。

 

 桐野利秋も川路と同じ外城士であるが、城下士からいじめを受け

 川へ放り込まれたりしても、笑って耐えていたためかえって

 尊敬を受けたという。

 しかし桐野より三歳上の川路は、陰湿な性格であり暗い思い出は

 歯ぎしりしたいような怨念だけを背負って成人した。

 

 この二人は西郷に認められることで出世していく。

 維新後、桐野は城下士に身分を直され、新陸軍の少将になり

 川路は外城士を中心に結成された東京警視庁の邏卒長とされた。

 ともに西郷を終生の大恩人としながら、二人の歩く道は対照的です。

 

 明治六年の政変で、西郷に従って桐野は官を捨て鹿児島へ帰る。

 しかし川路は大久保の下で警察強化に努め、西南戦争で

 西郷と薩摩士族を討滅する先鋒になり、桐野はそれを迎え撃つ

 薩軍の最高司令官となったのです。

 

 実際川路は警察の人民支配を強め、反大久保派の西郷派警察幹部を追放し

 新設警視庁の大警視となったのです。

 その後も国民を縛る強権立法を次々と作り出す、大久保にぴったりとつき

 その実施に精を出した。

 

 

文 栗原隆一作家、河野弘善作家、上田滋作家、渡辺誠作家他 

 

★田原への道

 

明治六年の政変というあまりにも低劣な政争に怒り

失望して下野した西郷隆盛でした。

決して征韓論などというものに敗れて、下野したわけではありません。

しかし今でも公教育では征韓論に敗れて、、、ということになっています。

 

ここから田原坂への道は、長州閥の腐敗、征韓論の真実などさまざまな

思いと思惑が転がっていました。

そして西南の役によって、確実に一つの時代が終わりました。

 

★西郷下野す

 

●下野した西郷の心情

明治六年(1873)年四月、西郷は明治六年の政変に敗れ

ひっそりと東京を後にします。

帰郷に際し西郷は、次のような漢詩を詠んでいます。

 

独り 時情に適わず        ひとり じじょうにあわず

あに勧笑の声を聞かんや      あにかんしょうの こえをきかんや

羞を雪ぎて 戦略を論じ      はじをそそぎて せんりゃくをろんじ

義を忘れて 和平を唱う      ぎをわすれて わへいをとなう

奉繪の違類は多けれど       しんかいのいるいは おおけれど

武候の再生は難し         ぶこうのさいせいは がたし

正邪は今 なんぞ定まらんや    せいじゃはいま なんぞさだまらんや

後世必ずや 清きを知らん     こうせいかならずや きよきをしらん

 

 

 

奉繪のような奸臣が多く、武候のような名臣は一人もいないと

太政政府の現状を嘆きながら、こみ上げる憤激を抑えて

自らの正当性を歴史の審判にゆだねようとする、西郷の心情です。

 

 

★横山正太郎安武諫死事件

 

 明治三年七月二十七日、鹿児島藩士、横山正太郎の諫死事件が起こった。

 横山はこの日の朝早く、集議院門扉に十箇条をしたためた建白書を挟んで

 津軽藩邸裏門前で、割腹自殺を図りました。

 

 集議院というのは、明治二年に成立した議政機関で,明治六年に廃止

 

 その建白書には次のようなことが書かれてありました。

 

 「政府の命令がくるくる変わり、万民孤疑を抱き、方向に迷う

  状態であるが、これは政府が本当に着実な気持ちで仕事を

  していないからだ。」

  とし、また上下こもごも利を図って国危うし、、、

  政府役人は上下を問わず、外には虚飾をはり、内には

  名利を事とする者が少ない、、、などと

 

 

 西郷同様当時の政府の腐敗をついています。

 これを死をもって諫めた事件です。

 政府の腐敗を横山は死を以て諫め、西郷は故郷に帰りました。

 

 

この西郷の後を追うように、桐野利秋、篠原国幹、村田新八

鹿児島県人約600人が、大挙して辞職、帰郷しました。

しかし鹿児島県人全員が、西郷の後を追ったわけではありません。

政府に残った人たちもいます。

 

そしてここに薩閥は、西郷派と大久保派に分裂したのです。

 

西郷派             大久保派

村田新八 篠原国幹       川路利良 黒田清隆

桐野利秋 永山弥一郎      西郷従道 川村純義

池上四郎 別府晋介       大山巌  種田政明

野村忍助 辺見十郎太      樺山資紀 伊東祐磨

河野主一郎           江田国道

 

西南戦争は、明治政府の骨幹を成す、近衛将校同士の対立でした。

 

 

絶叫して渡る太郎山

眼下に草爾たる熊本城

手に唾して抜くべし立食の間   桐野利秋

 

西南の役は約7か月に及んだ激闘です。

西南の役を代表するのが、田原坂の激戦です。

激戦と言うにはあまりにも凄惨な戦闘でした。

 

土地の老女は「田原坂の激闘にくらべたら、大東亜戦争なんか小さい」

と語ったという、、、、

この老女だけの感覚ではない、後の日露戦争で第三軍司令官として

二百三高地を攻略した乃木希典は、激しい旅順攻防戦の最中、

「田原坂の方がもっとひどかった」

と幕僚たちに漏らしたと伝わる。

 

わずか16日間の間に、薩摩軍と新政府軍が撃ち合った弾丸は

三十数万発に上がります。

戦場は長さ8キロ、幅6キロという狭いエリアです。

 

田原坂への道は、長州閥の腐敗、不平士族の発生と困窮

征韓論の真実、関ケ原以来の怨念等様々です。

 

●民謡 田原坂

 

 雨は降る 降る人馬は濡れる

  越すに越されぬ田原坂

 山に屍 河に血流る

 肥薩の天地  秋さびし

 

と歌われた西南戦争をみてみましょう。

 

★風雲ただよう鹿児島

 

明治六年の政変に敗れて下野した西郷ではあったが

その後、神風連の乱、佐賀の乱などの度重なる不平士族の反乱

私学校生徒の暴徒など、新政府への不満が高まり

ついに彼らを抑えきれなくなった西郷は、薩摩軍団を率い

決起へと踏みきったのです。

この前日、鹿児島には珍しく大雪が降ったという。

 

私学校とは、数万の人員を擁する私設軍隊であり、政治結社です。

当時鹿児島はこの私学校の独立王国でした。

明治九年政府が廃刀令、金録公債証書発行条例を公布し

士族の特権と誇りプライドを、真綿で締めるように圧迫するにおよび

士族の憤激は最高潮に達した。

 

そこから次々と士族の反乱が立てつづけに起こります。

明治政府内では明治九年ごろから、中央に従わない鹿児島を

どうするかが大きな問題になっていました。

その急先鋒が、長州閥の領袖、木戸孝允でした。

 

木戸は西郷が去ったあとの薩閥の代表、大久保利通に怒りをぶつけ

その責任を激しく追及したのです。

木戸の突き上げにより、大久保は善後策を図り腹心の大警視

川路利良らに三菱汽船赤竜丸を密かに差し向け、県庁にも届けず

武器弾薬を夜間、積み込ませたのです。

 

鹿児島には、陸軍省所管の銃器火薬の製造所や火薬庫が置かれていた。

これを政府が夜間、県庁にも届けず勝手に積み込み大阪へ移搬してしまった。

これを私学校の若手らは、政府の露骨な挑発と受け取った。

 

二月五日、私学校講堂に西郷を迎えて幹部会議が開かれ

桐野、篠原ら最高幹部の他、県下十八区長、私学校の一三七分校長など

二百余名が集まりました。

 

主戦派   桐野利秋、篠原国幹、池上四郎、別府晋介、辺見十郎太ら

慎重派   村田新八、永山弥一郎、野村忍助、河野主一郎ら

 

別府は、、、、正々堂々と政府問罪の軍を起こすべきである。

永山は、、、、西郷、桐野どんら数人で上京し、正々堂々政府の非を

       鳴らせばいい。


 主戦派と慎重派は上京の戦略論、戦況が進むにつれて戦術面でも

 摩擦を引き起こしていきます。

 会議は白熱し、参加者の大方は別府の意見に賛意を表し

 西郷はここに至って

 「もう何も言う事はなか、おはんたちがその気なら

   おいの身体は差し上げもそ」

と言ったという。

 

ついに運命の振り子が振られ、六日私学校本部の門標が

薩軍本部、、、と書き換えられます。

分校は分営に改まり従軍志願者の宿舎となった。

八日からはいよいよ上京軍の編成が始まった。

 

西郷起つの報を伝え聞いた壮士は、志願するため遠近から押しかけ

その日はこの日だけで三千人を超えたという。

二月十四日、この日は朝から粉雪がちらつき寒風が吹きすさんでいた。

伊敷村玉江練兵場には、そんな中、一万を超える兵士が集まっていた。

午前九時、西郷隆盛が正装して騎馬で現れた。

 

この日、西郷は県令大山を熊本鎮台に使いに走らせていた。

使者は鎮台司令官、谷干城少将あての趣意書を携えていました。

 

「拙者儀、今般、政府へ訊問のかどこれあり

 明後十七日県下発程 薩軍少将桐野利秋、篠原国幹および

 旧兵隊の者随行致し候間

 その台下通行の節は、兵隊整列指揮を受けるべく

 この段および御照会候也

  明治十年二月十五日 陸軍大将西郷隆盛」

 

この趣意書は十九日届いたのですが,すでに

賊徒征討令が下っていました。

 

賊徒征討令

「鹿児島県暴徒は、ほしいままに兵器を携え、熊本県へ乱入

 国権をはばからず、叛跡顕然につき征討仰せられ候条

 この旨相達し候事

 明治十年二月十九日 太政大臣三条実美」

 

こうして西郷軍団はひたすら熊本城をめざすのです。