薩軍と政府軍が戦った最後の内戦、西南戦争は政府軍の勝利で終わりました。
そして明治時代に入ります。
日本はアジア人でありながら、今日にいたるまでなぜか欧米の方ばかりを
向いて来ました。
その理由が書かれています。
★脱亜入欧を徹底した日本の悲劇
このころの国際社会は、弱肉強食の世界であり、イギリスを先頭とする
欧米列強にとって、東アジアは残された最後の市場でした。
だが現実として、欧米列強と対等関係に立つことが、そうたやすく
実現できるはずもない。
厳しい国際情勢の中で、進むべき道を模索していた維新政府が
列強に習って、選択した対アジア外交路線は、近代の日本の
将来を暗示する重大な決定であった。
明治元年(1868)年1月15日、成立したばかりの維新政府は
対外和親の布告を発した。
そこには
「幕府従来の失錯により、因循今日に到候
大勢誠にやむをえさせられず、今後は対外方針の基本を
和親に置くとし、ついては上下一致疑惑を生ぜず大いに兵備を
充実し国威を海外万国に光耀せしめるべき」
と謳われていた。
ここでいう和親は、単なる友好などの意味ではない。
それは欧米列強と対等な関係に立つということであり、そのためには
それを可能にするだけの強力な国家を創り上げることが
必要だとされているのである。
このような意味での、万国対峙の理念は明治維新の
全課程を一貫するものである。
明治元年には神戸事件、堺事件、イギリス公使パークス襲撃事件など
トラブルが続出、政府は犯人厳罰や償金支払いなどひたすら低姿勢で
臨むほかなく、こうした政府の弱腰に対して国内で非難の声が上がり
井上馨は「すこぶる外国に恐怖、幕府が滅びたのも不当に外国を恐れた
結果であり、このままではその轍を踏むことになりかねない」
と強調した。
また、伊藤博文によれば
「天皇陛下はわが東洋諸州に行わるる所の、政治風俗を以て
我が国の善美を尽くすに足れりとせず。
何ぞや欧米各国の政治、制度、風俗、教育、営生、守産
おおむね我が東洋に超絶するを以てなり。
ここにおいて、開明の風を我が国に移し、わが国民をして
速やかに同等の化域に進歩せしめんことを志」
ているとされる。
そして日本は列強に伍して行こうとするにあたり、アジアの立場を
脱して自らが欧化してゆく道を選んだのである。
しかしその役立て方が脱亜入欧の徹底であったことが
近代の日本と東アジアにとっての悲劇であった」
文 青山忠正
★明治政府のスローガン
富国強兵
明治政府が日本を欧米諸国に追いつく、近代国家へと生まれ変わらせる
ために国を豊かにし、強い軍隊を作ることを目指して
掲げたスローガンが、富国強兵です。
板垣退助は富国強兵を国策に掲げ、明治4年2月、明治天皇の親衛を
目的とする薩摩、長州、土佐藩の兵からなるフランス式兵制の
御親兵6000人を創設しました。
御親兵は今では名を変え、近衛兵となっています。
★侵略戦争の道筋そのもの
吉田松陰は
「富国強兵し蝦夷を耕し、満州を奪い、朝鮮に来り
南地(台湾)を併せ、しかる後、米をくじき
欧(ヨーロッパ)を砕かば、事克たざるはなからん」
と栗原良蔵に与うる書の中で書いています。
これはその後の日本の侵略戦争の道筋そのものです。
★明治天皇となった大室寅之祐のその後
明治の元老や元勲たちは、明治天皇の出自を知っていたので、天皇に
政治的な能力は期待していなかった。
しかし天皇の出自を知らない人たちの中から、天皇に権力を与えて
元老たちの行動を制約し、それにより自分たちのグループを拡大
しようとする勢力が出できた。
●笠原英彦
天皇はまた、学問好きであった。
宮中改革直後の新聞雑誌に、次のような記事が掲載されている。
【まさに今、上下才力知識を研磨するの時にあたり、怖れ多くも
主上日々の御課業、日本書紀、日本書紀集解、論語、元明史略、英国誌
国法汎論、人身究理書、を御講究あらせらるる由
億兆の子弟宜しく聖旨奉戴し日夜勉励各各その才識を開達すべし。
豈優遊安逸に過ぐべけんや】天皇親政
また天皇の馬好きはさらに嵩じていった。
即位前の睦仁に乗馬記録はないのに、新天皇は鳥羽伏見の戦いの後
乗馬して閲兵したというのだが、、、、
学問の面からは、加藤弘之が侍読に任命され、欧米の政治や
歴史を主とした洋学の進講が始まっていた。
翌年には、これに元田ら儒学者も加えられた
大久保らは、君徳培養、天皇輔導に務める一方、天皇親政を内外に
示す工夫に絶えず知恵を絞った。
岩倉、大久保らは薄氷を踏む思いで、政権の安定と天皇親政体制の
構築にのぞんだのだった。
不法と謀略の限りを尽くした大久保も、紀尾井坂で暗殺され
これより前、木戸も大阪で病死した。
天皇の出自を知る有力者は、伊藤博文、山縣有朋、岩倉具視、西園寺公望
少数となった。
彼らが天皇を神聖不可としたのは、それにより自分たちをも神聖不可とし
尊いものはこれを汚してはならない、尊厳や名誉を汚してはならないとし
国民の口を一切封じたのです。
孝明天皇父子を暗殺し、偽天皇を仕立てたことを告発されまいとするために。
その後、明治16年7月20日、岩倉具視病死
明治42年10月26日、伊藤博文もハルビンで暗殺された。
かつて江戸幕府を支えていた旗本たちは、明治維新によって職を失い
斜陽族になった。
伊藤博文らはその中から美女を選び、城内に入れて千代田遊郭を作った。
そこは皇族や高級官僚の遊び場となり、天皇や諸侯らもせっせと通った。
明治天皇の側室は、30人以上いたと言われる。
その側室との間に皇子、皇女は19人いました。
しかし多くは2歳までに死亡しています。
明治21年8月31日天皇の子を身ごもった、権典侍、柳原愛子は男児を出産
のちの大正天皇、明宮嘉仁親王です。
●坊城俊良 大正天皇侍従
「大正天皇は非常に明朗な御性格であったということだけでなく
その時代までは確かに、そういう御自由が許される伸び伸びした
空気があったのである。
皇室と国民の間を厳しく隔てるようになったのは、大正中期以降からで
昔はそうではなかった。」
大正中期以降時代は重苦しくなっていく、
共産主義登場の時代を迎える。
陽気で闊達な天皇では、これからの日本の将来に不安であるという
空気が濃くなっていく。
オーストリア、ハンガリーの王室も潰れていく。
共産主義が日本に出現する。
こうした中で大正天皇の病気が重くなっていく。
皇太子裕仁は摂政、昭和元年の暮れ12月25日に大正天皇は
47歳で死去
これにより裕仁は昭和天皇となります。
明治維新において、大室王朝が生まれ、昭和に入って
昭和天皇王朝が生まれたのです。
(鬼塚英彦)