西郷城山に散る | 気になるニュースチェックします。

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★西郷城山に散る

 

二十四日、午前四時三発の赤い号砲が轟いた。

総員突撃の合図である。

攻撃隊は一斉に薩軍各塁に襲い掛かる。

各塁を次々と落とし、六時ころには岩崎谷堡塁だけとなる。

西郷が洞窟を出たのはそのころである。

 

岩崎谷の洞窟の前には、西郷隆盛以下、桐野利秋、村田新八、池上四郎

別府晋介、辺見十郎太ら四十名が勢ぞろい。

ほとんどの諸将が真新しい単衣だった。

 

一同は最後の戦いで、有終の美を飾るべく西郷が走り出すと

皆、坂下の岩崎口の大堡塁に走り出した。

辺りには銃弾がはじける。

故老の話しに、四十余名の将兵は、黒い疾風のように走ったとある。

走り出したとたん、島津一門の桂久武が雨注する弾丸で戦死している。

 

別府晋介の下僕、大内山平畩 当時十六歳は

「官軍の弾がどんどん来るなかで、岩崎谷入口の方へ進むなかに

 たくさんの人が弾に当たって倒れていた」と述べている。

 

下り出してすぐ、小倉壮九郎が道端で腹を切った。

彼は東郷平八郎の実兄です。

さらに下ると弾雨がますます激しくなった。

 

平畩は畩市と二人で、別府の輿を担ぎ、西郷の後に続いていた。

別府はその時、足に負傷していたのである。

だが島津応吉邸の少し上で、畩市が弾に当たって動けなくなったので

平畩が別府を背負い、坂道を駆け下った。

 

「私は別府さんを背負って進みました。

 そのため西郷さんなどから少し遅れました。

 そして島津さんの前に来たとき、西郷さんが股を撃たれ、少し

 足を上げて止まっおられましたから、別府さんが先に行く人々に

 【先生が弾に当たっておらるるが、いけんすっか】

 と呼ばれました。

 西郷さんは別府さんに向かって【もう歩けんから首を斬ってくれ】

と言われましたから、別府さんが一撃に斬られました。

 

ついに島津応吉邸の前に来た時、敵弾が西郷の股と脇腹にあたった。

転倒した西郷は、もう起き上がる気力はなく別府に

「晋どんもうよかろ」

と言って膝をそろえ、襟を正して東を遥拝した西郷は

別府と最後の挨拶を交わし、別府の太刀が一閃した。

 

腹部と股部に流弾を受けた西郷は、別府晋介の介錯で生涯を閉じた。

五十一歳でした。

 

別府は西郷の首級を薩軍の兵士に託し、折田邸の藪の中に埋めさせた。

薩軍のその兵士が去ると

「先生は先に逝かれもんした。

 先生と生死を共にしもんそ。」

と叫びながら敵弾を浴びたというが、辺見と刺し違えたともいう。

 

ところで別府が西郷の首を下僕の吉右衛門に渡したというのが巷説と

なつているが、その時吉右衛門は西郷のそばにはいなかった。

平畩は

「その時、私はべっぷさんより先に岩崎谷入口にかけて行って

 台場の左手にある鮫島さんの家に着きました。

 ここで西郷さんの下僕、吉右衛門に会いました。」

 

西郷の末弟、小兵衛の妻まつも

「吉右衛門が西別府に来たのは、落城の翌日二十五日です。

 隆盛さんの最期を見届けませぬから、その様子など話しませぬ」

と語っている。

 

別府から首を受け取ったのは、後から谷道を駆け下りて来た十八、九の

薩軍の兵であった。

政府軍の曽我祐準の懐旧談によれば、西郷の首は弾丸で倒れた薩兵が

息絶える寸前に指した武家屋敷、折田邸の竹やぶから発見されたという。

 

堡塁の上では、桐野が自ら小銃を発射し続けていた。

やがて敵弾が桐野の左額を貫いた。

桐野は鮮血を浴び、力尽きて斃れた。

同じころ、村田、池上、辺見らも同じ堡塁で息絶えた。

 

午前九時、城山の銃声が止んだ。

その後、一陣の豪雨が白山の山野を洗い流した。

 

水も漏らさぬ官軍の作戦の前に、袋のネズミとなった薩軍は

故郷城山で玉と砕け散華した。

 

★ここから始まる大東亜戦争へ通じる道

 

我が国最後の内戦となった西南戦争

その闘いで使用された武器や軍装は、数多く現存しています。

官軍には制服があり、新鋭の銃を使用するなど近代軍隊の体制が

整いつつあった。

それに対して薩軍は、武器軍装といっても、統一された形式は存在せず

このあたりにも勝敗の帰結の一因がうかがえる。

 

西南戦争は西郷にとって

「最初より我らにおいては、勝敗を以て論じ候

 わけにてはこれなく、もともと一つ条理にたおれ候見込みのこと」

 

と言っているように、富国強兵もいいが、それには正義、人道を

踏み外してはならぬという一本の条理を強調したかった。

それなのに大久保に始まる日本の政治は、富国強兵のために

正義、人道を踏み外して大東亜戦争という失敗をしたのであった。

 

 (桐野作人 作家、阿井惠子作家、勝部真長お茶の水女子大教授)他

 

★西郷に付き従い激闘の中で散華した父と子

 

田原坂

右手に血刀 左手に手綱  馬上豊かに美少年

 

と歌われた美少年は、村田岩熊のことである。

彼は村田新八の長男である。

次男二蔵もこの西南戦争に参戦しています。

 

ところが二人ともまだ少年なので、所属した隊の隊長が伝令を命じた。

これを知った父の新八は、息子の岩熊に伝令など辞めて隊の指揮をとれと

言ったという。

そこで岩熊は戦闘に加わり、そして植木で奮戦し戦死した。

この時の光景をうたったのが、右手に血刀左手に手綱、、、という

今に残る歌です。

 

村田新八は、西南戦争が起こると西郷の脇にピタリとついて

最後まで戦った。

村田は次男の二蔵に可愛岳突破のことを告げなかった。

二蔵はそのまま残って、政府軍の捕虜となった。

せめて次男だけでも、命を助けたいという親心であった。

そして城山で官軍の総攻撃のなか、壮烈な戦死を遂げた。

四十二歳であった。

(童門冬二 作家)