谷夫人の挺身ありて | 気になるニュースチェックします。

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★谷夫人の挺身ありて

 

鹿児島を発った薩軍の第一の攻撃目標は、鎮台兵の守備する熊本城です。

大雪の中、出陣する薩南健児一万三千人

これを迎え撃つは熊本鎮台兵

 

薩軍にとって最初に熊本城を奪取することが、勝利へつながる

最善の道であったからです。

その熊本城を守るのは、精兵と兵器をすぐった熊本鎮台兵です。

これが開戦の初夜に陥落すれば、その衝撃は計り知れない。

 

この熊本鎮台を守る熊本鎮台司令長官は、谷干城

その谷干城は、後年次のような手記をしたためている。

【我の人となりしは、わが父とわが師とわが妻の恩なり】

 

彼はまた人に向かって

【余の最も恐るるは、天子と地震とわが妻なり】

とよく言ったと伝わる。

 

その妻の玖満子は、熊本城籠城の際、身を挺して内助の功を

発揮したといいます。

戦闘員以外は、朝晩は粟がゆ昼は粟飯と定められていた。

 

その粗末な食事を補うため、砲声が間遠になった頃合いをみて

幕舎の外に出て、野蒜やハコベなどの野草を摘み浸し物などを

先頭に立って玖満子は働いていたという。

 

ある日の夜半、将校夫人たちは、大きな荷物を背負った

泥だらけの姿で幕舎に現れた玖満子を見た。

荷物はすり鉢、すりこぎ、など道具を集めたもの。

それは彼女が単身、塀や土塀を乗り越えて、城外の焼け残りの

家からそれを失敬してきたのだという。

 

それは以前、もち米など特別な配当が許されたから、皆で

彼岸の牡丹餅を作ろうと発案し、道具は何とかすると言っていた。

それがまさかそのような手段で、調達してくるとは、、、

 

「いざとなれば、泥棒をしてもうまくやって行ける自信がつきました」

と屈託なく笑っていたという。

夫人たちの手で作られた牡丹餅は、本営の将校や部下たちにまで配られ

彼らの士気をよみがえらせた。

 

熊本城籠城は、五十四日の長きに及んだが、やがてそれも山川浩中佐の

決然たる急進によって解放されました。

戊辰戦争当時は、山川大蔵と称し会津藩を率いて彼らと敵対しました。

その山川隊を谷は、諸将校を以て迎えました。

 

【石なれと  固く守りし甲斐ありて

  今朝 日の御旗 見るぞうれしき】

 

官軍の入城を見て詠んだ谷の歌です。

谷は明治四十四年七十五歳でこの世を去りました。

 

 

熊本城は加藤清正が築いた天下の名城

そこに殺到する薩軍部隊

十九日この戦役の将来を暗示するような事件が起きました。

それは熊本城天守閣の突然の炎上です。

そして天守閣に集積されていた、籠城一か月に相当する

兵糧や薪炭がことごとく灰になってしまったのです。

 

天守を焼いた火の粉は城下に飛び火し、城下を焼き尽くした。

この事件は、市民には災難であったが、籠城軍には

薩軍が拠るべき遮蔽物を取り払ってしまったという意味で幸運だった。

焼け野原と化した城下を舞台に繰り広げられる、熊本城攻防戦。

 

★天守閣炎上の謎

 

明治十年二月十九日、午前十一時四十分ごろ

熊本鎮台兵が籠城していた熊本城の天守閣付近から突然

火の手が上がり、折からの強風にあおられ火は瞬く間に

城下に飛び火し、市内の中心部を焼き払った。

 

出火の原因は未だ謎である。

この火災により薩軍は、天守閣という攻撃目標を失っただけでなく

籠城軍の銃撃から身を避ける、遮蔽物をも失った。

これを知った西郷は、自分の計略もこれまでと、いたく落胆したという。

天守閣炎上は、案外籠城軍による戦略であったかもしれない。

 

 

城は陥落しなかった。

天守を焼失し食糧も不足、焼け野原となった

熊本市内にあり、三千余りの鎮台兵は城を死守したのです。

熊本城五十二日間の鎮台兵の籠城戦は、窮地に陥るも薩軍の猛攻に堪え

みごとに戦いぬいたのです。

 

やがて薩軍は、兵力の大部分を田原坂方面に移動

十七日間の死闘は山野を血に染めた。

 

★田原坂

 

田原坂は高瀬から植木に至る中途の小丘陵である。

標高も最高百メートル足らずで、地勢的にさして天険というほどではない。

尾根伝いに羊腸のようにくねった二キロほどの切通の坂道があり

これを田原坂という。

 

この坂道は加藤清正が、熊本城防衛の北の要地として、切り開かせた

守るに易く攻めるに難たい地形となっている。

 

●征西戦記稿

 

【田原坂の北たるや、外たかく内低く、あたかも凹字形を成し坂勢峻急

加うるに一捗一降の曲折を以てし、坂の左右は断崖障壁にして茂樹灌木

これをおおい、うっそうとして昼暗く誠に天険となす】

 

坂道は凹字形を成し、その両側は五、六メートル高い土手になっている。

薩軍はここに拠り、下から攻めあがる官軍を悩ました。

熊本城に通じる道のうち、この道だけが唯一大砲を引いて通るだけの

道幅がある。

 

だから何としてでも官軍はここを通らねばならなかった。

四日から官軍は田原坂方面を主攻

そして両軍主力を投入して、血みどろの戦闘が連日続けられたのです。

 

雨はふるふる人馬は濡れる、、、と唄われるように

田原の戦闘では、よく雨が降った。

ときとして豪雨にもなった。

 

この雨は薩軍に禍し、薩軍は雨に弱い先込め銃が多く

ただでさえ劣弱な火力を一層貧弱にした。

薩軍に困るもの三つあり

一つに雨、二つに赤帽(近衛兵)、三つに大砲、、、と歌われたくらいです。

 

官軍が田原の戦闘で費消した小銃弾薬は、一日平均三十二万発

多い日には六十万発にも上ったといいます。

これは日露戦争での旅順攻撃の三十万発を上回る驚異的な数字です。

 

田原の戦場では、両軍の銃火が行き交い空中で衝突する行合弾なる

現象も生まれたといいます。

戦後この地から行合弾が数多く発掘されています。

 

両軍の激戦によって、田原坂丘陵一帯は、小銃弾によって

草木はなぎ倒され、さながら歯ブラシのような形状を呈していたと

言われています。

両軍合わせて四千人以上の死傷者を出した田原坂をめぐる薩官の攻防は

西南戦争の天王山ともいうべき戦いであった。

 

●佐川官兵衛

 

西南戦争では、旧会津藩士 佐川官兵衛も戦死しています。

佐川は鳥羽伏見の戦いで、徳川軍の先頭に立って薩軍と戦い

会津戦争でも薩長軍と対戦し、ここに三度薩軍と戦い

壮烈な戦死を遂げました。

 

●山川浩

 

熊本城に入った山川は、その後も人吉から都城方面の戦いにも参加

宮崎、佐土原 高鍋の戦いでは、戊辰戦争での恨みを晴らすかのように

戦ったという。

 

★薩軍討滅に燃えた軍人たち

 

同じ鹿児島県人でありながら、官軍として薩軍討滅に燃えた人たちがいる。

川村純義、野津鎮雄、樺山資紀、黒田清隆、大山巌、川路利良、西郷従道です。

 

その急先鋒が川路利良です。

●川路利良

 

 明治九年十二月末、東京警視庁の大警視、今で言うなら警視総監

 川路は、部下二十名余を私学校に密偵または離間工作者として送り込む。

 その出率にあたっての訓示

 「私学校徒は、私怨を晴らすために殺戮しようとするものだから

  六千名の警官はこれに対し、奮励して国家を保護すべきだ。

  また、君ら外城士は、城下士から牛馬視されたことを思い出せ。

  独立自助の精神を以て城下士の下僕視される状態から脱せよ」

 

 川路は薩摩の郷士身分の出身である。

 薩摩藩では士族を大別して城下士と外城士があった。

 城下士は島津家に直属する者であり、外城士は常に彼らから

 卑しめられ絶えず屈従的な扱いを受けていた。

 

 桐野利秋も川路と同じ外城士であるが、城下士からいじめを受け

 川へ放り込まれたりしても、笑って耐えていたためかえって

 尊敬を受けたという。

 しかし桐野より三歳上の川路は、陰湿な性格であり暗い思い出は

 歯ぎしりしたいような怨念だけを背負って成人した。

 

 この二人は西郷に認められることで出世していく。

 維新後、桐野は城下士に身分を直され、新陸軍の少将になり

 川路は外城士を中心に結成された東京警視庁の邏卒長とされた。

 ともに西郷を終生の大恩人としながら、二人の歩く道は対照的です。

 

 明治六年の政変で、西郷に従って桐野は官を捨て鹿児島へ帰る。

 しかし川路は大久保の下で警察強化に努め、西南戦争で

 西郷と薩摩士族を討滅する先鋒になり、桐野はそれを迎え撃つ

 薩軍の最高司令官となったのです。

 

 実際川路は警察の人民支配を強め、反大久保派の西郷派警察幹部を追放し

 新設警視庁の大警視となったのです。

 その後も国民を縛る強権立法を次々と作り出す、大久保にぴったりとつき

 その実施に精を出した。

 

 

文 栗原隆一作家、河野弘善作家、上田滋作家、渡辺誠作家他