田原への道 | 気になるニュースチェックします。

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★田原への道

 

明治六年の政変というあまりにも低劣な政争に怒り

失望して下野した西郷隆盛でした。

決して征韓論などというものに敗れて、下野したわけではありません。

しかし今でも公教育では征韓論に敗れて、、、ということになっています。

 

ここから田原坂への道は、長州閥の腐敗、征韓論の真実などさまざまな

思いと思惑が転がっていました。

そして西南の役によって、確実に一つの時代が終わりました。

 

★西郷下野す

 

●下野した西郷の心情

明治六年(1873)年四月、西郷は明治六年の政変に敗れ

ひっそりと東京を後にします。

帰郷に際し西郷は、次のような漢詩を詠んでいます。

 

独り 時情に適わず        ひとり じじょうにあわず

あに勧笑の声を聞かんや      あにかんしょうの こえをきかんや

羞を雪ぎて 戦略を論じ      はじをそそぎて せんりゃくをろんじ

義を忘れて 和平を唱う      ぎをわすれて わへいをとなう

奉繪の違類は多けれど       しんかいのいるいは おおけれど

武候の再生は難し         ぶこうのさいせいは がたし

正邪は今 なんぞ定まらんや    せいじゃはいま なんぞさだまらんや

後世必ずや 清きを知らん     こうせいかならずや きよきをしらん

 

 

 

奉繪のような奸臣が多く、武候のような名臣は一人もいないと

太政政府の現状を嘆きながら、こみ上げる憤激を抑えて

自らの正当性を歴史の審判にゆだねようとする、西郷の心情です。

 

 

★横山正太郎安武諫死事件

 

 明治三年七月二十七日、鹿児島藩士、横山正太郎の諫死事件が起こった。

 横山はこの日の朝早く、集議院門扉に十箇条をしたためた建白書を挟んで

 津軽藩邸裏門前で、割腹自殺を図りました。

 

 集議院というのは、明治二年に成立した議政機関で,明治六年に廃止

 

 その建白書には次のようなことが書かれてありました。

 

 「政府の命令がくるくる変わり、万民孤疑を抱き、方向に迷う

  状態であるが、これは政府が本当に着実な気持ちで仕事を

  していないからだ。」

  とし、また上下こもごも利を図って国危うし、、、

  政府役人は上下を問わず、外には虚飾をはり、内には

  名利を事とする者が少ない、、、などと

 

 

 西郷同様当時の政府の腐敗をついています。

 これを死をもって諫めた事件です。

 政府の腐敗を横山は死を以て諫め、西郷は故郷に帰りました。

 

 

この西郷の後を追うように、桐野利秋、篠原国幹、村田新八

鹿児島県人約600人が、大挙して辞職、帰郷しました。

しかし鹿児島県人全員が、西郷の後を追ったわけではありません。

政府に残った人たちもいます。

 

そしてここに薩閥は、西郷派と大久保派に分裂したのです。

 

西郷派             大久保派

村田新八 篠原国幹       川路利良 黒田清隆

桐野利秋 永山弥一郎      西郷従道 川村純義

池上四郎 別府晋介       大山巌  種田政明

野村忍助 辺見十郎太      樺山資紀 伊東祐磨

河野主一郎           江田国道

 

西南戦争は、明治政府の骨幹を成す、近衛将校同士の対立でした。

 

 

絶叫して渡る太郎山

眼下に草爾たる熊本城

手に唾して抜くべし立食の間   桐野利秋

 

西南の役は約7か月に及んだ激闘です。

西南の役を代表するのが、田原坂の激戦です。

激戦と言うにはあまりにも凄惨な戦闘でした。

 

土地の老女は「田原坂の激闘にくらべたら、大東亜戦争なんか小さい」

と語ったという、、、、

この老女だけの感覚ではない、後の日露戦争で第三軍司令官として

二百三高地を攻略した乃木希典は、激しい旅順攻防戦の最中、

「田原坂の方がもっとひどかった」

と幕僚たちに漏らしたと伝わる。

 

わずか16日間の間に、薩摩軍と新政府軍が撃ち合った弾丸は

三十数万発に上がります。

戦場は長さ8キロ、幅6キロという狭いエリアです。

 

田原坂への道は、長州閥の腐敗、不平士族の発生と困窮

征韓論の真実、関ケ原以来の怨念等様々です。

 

●民謡 田原坂

 

 雨は降る 降る人馬は濡れる

  越すに越されぬ田原坂

 山に屍 河に血流る

 肥薩の天地  秋さびし

 

と歌われた西南戦争をみてみましょう。

 

★風雲ただよう鹿児島

 

明治六年の政変に敗れて下野した西郷ではあったが

その後、神風連の乱、佐賀の乱などの度重なる不平士族の反乱

私学校生徒の暴徒など、新政府への不満が高まり

ついに彼らを抑えきれなくなった西郷は、薩摩軍団を率い

決起へと踏みきったのです。

この前日、鹿児島には珍しく大雪が降ったという。

 

私学校とは、数万の人員を擁する私設軍隊であり、政治結社です。

当時鹿児島はこの私学校の独立王国でした。

明治九年政府が廃刀令、金録公債証書発行条例を公布し

士族の特権と誇りプライドを、真綿で締めるように圧迫するにおよび

士族の憤激は最高潮に達した。

 

そこから次々と士族の反乱が立てつづけに起こります。

明治政府内では明治九年ごろから、中央に従わない鹿児島を

どうするかが大きな問題になっていました。

その急先鋒が、長州閥の領袖、木戸孝允でした。

 

木戸は西郷が去ったあとの薩閥の代表、大久保利通に怒りをぶつけ

その責任を激しく追及したのです。

木戸の突き上げにより、大久保は善後策を図り腹心の大警視

川路利良らに三菱汽船赤竜丸を密かに差し向け、県庁にも届けず

武器弾薬を夜間、積み込ませたのです。

 

鹿児島には、陸軍省所管の銃器火薬の製造所や火薬庫が置かれていた。

これを政府が夜間、県庁にも届けず勝手に積み込み大阪へ移搬してしまった。

これを私学校の若手らは、政府の露骨な挑発と受け取った。

 

二月五日、私学校講堂に西郷を迎えて幹部会議が開かれ

桐野、篠原ら最高幹部の他、県下十八区長、私学校の一三七分校長など

二百余名が集まりました。

 

主戦派   桐野利秋、篠原国幹、池上四郎、別府晋介、辺見十郎太ら

慎重派   村田新八、永山弥一郎、野村忍助、河野主一郎ら

 

別府は、、、、正々堂々と政府問罪の軍を起こすべきである。

永山は、、、、西郷、桐野どんら数人で上京し、正々堂々政府の非を

       鳴らせばいい。


 主戦派と慎重派は上京の戦略論、戦況が進むにつれて戦術面でも

 摩擦を引き起こしていきます。

 会議は白熱し、参加者の大方は別府の意見に賛意を表し

 西郷はここに至って

 「もう何も言う事はなか、おはんたちがその気なら

   おいの身体は差し上げもそ」

と言ったという。

 

ついに運命の振り子が振られ、六日私学校本部の門標が

薩軍本部、、、と書き換えられます。

分校は分営に改まり従軍志願者の宿舎となった。

八日からはいよいよ上京軍の編成が始まった。

 

西郷起つの報を伝え聞いた壮士は、志願するため遠近から押しかけ

その日はこの日だけで三千人を超えたという。

二月十四日、この日は朝から粉雪がちらつき寒風が吹きすさんでいた。

伊敷村玉江練兵場には、そんな中、一万を超える兵士が集まっていた。

午前九時、西郷隆盛が正装して騎馬で現れた。

 

この日、西郷は県令大山を熊本鎮台に使いに走らせていた。

使者は鎮台司令官、谷干城少将あての趣意書を携えていました。

 

「拙者儀、今般、政府へ訊問のかどこれあり

 明後十七日県下発程 薩軍少将桐野利秋、篠原国幹および

 旧兵隊の者随行致し候間

 その台下通行の節は、兵隊整列指揮を受けるべく

 この段および御照会候也

  明治十年二月十五日 陸軍大将西郷隆盛」

 

この趣意書は十九日届いたのですが,すでに

賊徒征討令が下っていました。

 

賊徒征討令

「鹿児島県暴徒は、ほしいままに兵器を携え、熊本県へ乱入

 国権をはばからず、叛跡顕然につき征討仰せられ候条

 この旨相達し候事

 明治十年二月十九日 太政大臣三条実美」

 

こうして西郷軍団はひたすら熊本城をめざすのです。