★★★征韓論の最大の受益者 長州汚職閥
征韓論とは、武力で朝鮮を制圧しようという主張です。
教科書には、武力で国交を認めさせようとする主張であると
書かれています。
征韓論が起こった原因については、詳しく説明されていません。
どうして説明されていないのでしょう、、、、
それは明治政府にとって都合が悪いからです。
歴史はいつも勝者が創るもの、、、だからです。
都合の悪いものを歴史に残すはずがない。
西郷隆盛はその、征韓論に敗れて帰郷したことになっています。
それでは、その征韓論というものがどうして起き、西郷は
どうして征韓論に敗れて帰郷したことになったのか
見ていくことにしましょう。
★岩倉使節団
この物語は、岩倉使節団という遣外使節団が、明治4年11月12日
最初の訪問先、アメリカのワシントンに向けて出発した時から始まります。
岩倉使節団というのは、公家の岩倉具視を特命全権大使としたことで
その名がついた遣外使節団です。
遣外使節団とは外国に派遣された使節団という意味です。
この岩倉使節団は、公教育の教科書では、明治新政府の首脳となった
志士たちが西欧から近代を学び取ってきた、歴史的な使節団として
今でも華々しく評価されています。
その構成メンバーは
正使、岩倉具視
副使、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳
そして一等書記官から四等書記官、随行、理事官、随員、留学生
からなる大使節団でした。
この中には、福地源一郎、田中光顕、佐佐木高行、村田新八、由利公正
中江兆民、金子堅太郎、牧野伸顕、津田梅子、山川捨松、大鳥圭介、
新島襄など様々な人がいます。
ホントに豪華なメンバーですね。
これらの人々を乗せて、岩倉使節団はアメリカへと出発したのです。
この使節団の任務は、日米修好通商条約改正の準備交渉と、欧米
先進国を廻り近代化の状況を視察して、今後の日本の発展に
役立てることにありました。
期間は約10か月の予定でした。
ところがそれがなんと、一年以上も伸びて一年10 か月間もの間
この岩倉使節団一行は日本に帰国しなかったのです。
それは最初の使節団の訪問先、ワシントンで大失態を犯したからです。
最初この使節団は、親善訪問する予定だったのが、アメリカの歓迎ぶりを見て
当時の駐米小弁務使、森有礼が正式な条約改正交渉に入る好機であると
岩倉らに進言したのです。
小弁務使とは、明治初期の外交官の総称です。
こののち公使と改編されます。
我が国最初の駐米外交官は、森有礼です。
そしていざ本格交渉に入ろうとしたとき、彼らの持っていた委任状が
彼らには交渉する権限そのものがない、委任状だった。
条約改正交渉の権限、調印の権限を付与されたものではなかったのです。
つまり交渉の権限を証明する全権委任状を持っていなくて、副使である
大久保利通と伊藤博文が急いで、本国にとりに帰りアメリカ滞在だけで
半年以上も要してしまいます。
全権委任状を待っている間に、岩倉や木戸たちは国務長官相手に
予備交渉に入るが、軽率に交渉を始めて失敗し岩倉、木戸たちは大きな
ショックを受け挫折感を味わいます。
アメリカでの失態の影響で、イギリスでは避暑の時期にぶつかり
ビクトリア女王の避暑明けをただ待つありさま、、、、
ロンドン駐在寺島大弁務使からは、
「万国の一笑のみ」
と酷評されました。
また思想家、三宅雪嶺からは
「国事を余所にし、花に戯れ月に受かるる」
と批評されました。
そしてそのころ、次のような狂歌が世に流行りました。
「条約は結び損ない 金は捨て
世間へ大使(対し) 何と岩倉」
公金の大きな無駄遣い、大失態からの使節団の常軌を逸するほどの遅れ
不平等条約改正の交渉は果たせず、、、、
これがあの公教育で教えられる、西欧から近代を学び取ってきたと
華々しく評価されているという岩倉使節団の実態です。
★留守政府
岩倉使節団が最初10か月の予定で出かけたものの、大失態から
一年10か月という長い期間になってしまった間、その留守を守って
いたのが留守政府です。
そのメンバーは、西郷隆盛をはじめ、大隈重信、板垣退助、後藤象二郎
大木高任、江藤新平、副島種臣、山縣有朋、井上馨、三条実美らでした。
岩倉使節団が、国費を冗費している間、留守政府はさまざまな
変革の施策を実行しました。
明治政府初期の施策のほとんどは、留守政府の手によるものです。
●留守政府の二年間の実績
🌸人権問題、封建的身分差別の撤廃
🌸土地制度問題、封建制の経済面の改革、近代的土地制度
🌸戸籍整備
🌸教育の普及
🌸西洋文明の輸入
🌸法治主義の導入 等々
法治主義の導入の推進力は、江藤新平でしたがその活動を見守り
擁護したのが西郷です。
江藤は優れた行動力と政治力の司法卿でしたが、長州閥にとっては
強敵でした。
前回の尾去沢銅山事件や小野組転籍事件を摘発して、追い詰めたからです。
これら政治汚職は、みな木戸孝允の子分井上馨や槙村正直が起こした事件です。
木戸はよくもまあこんな悪い子分たちを、持ったものだと思いますが
親分が正義の人で、子分が悪人なんてそういう主従関係は成り立ちません。
親分が正義の人ならば、悪人の子分は斬って捨てますし子分にはしません。
子分が善人で親分が悪人ならば、そういう親分の子分にはなりません。
従って木戸も悪人ということになります。
悪人同士主従関係になっていたわけです。
不正を容赦しない江藤の創った裁判所を、木戸は憎悪し
「裁判所なんて人民のためにならないから、潰してしまえ」
と息巻いたといいます。
人民のためにならないのではなく、自分たち不正をする者のために
邪魔だから潰してしまえ、、、、と木戸は息巻いたのです。
なんという男だか、、、
西郷はこの留守を預かる留守政府の長です。
細かいことはわかりません、実務も江藤や板垣などが行いました。
あの井上馨の金まみれに走らせた、尾去沢銅山事件や小野組転籍事件
などもこのころに起きました。
この事件の詳しいことは、前回のブログで説明しています。
★征韓論者か平和主義者か
そしてさらにこのころ外交の面で朝鮮問題が発生しました。
これが世にいう征韓問題です。
ここから今日に至るまで、西郷は征韓論者か平和主義者か
という論争が絶えないのです。
卑劣なやり方で徳川幕府を倒して、次は朝鮮か、、、、
西郷はほんとに悪い奴だな、、、、世の中の人は
そう考えている人のなんと多いことか、、、、
だから征韓論で敗れて下野したと、、、、
しかしその後の西郷や明治政府の行動を見ると、誰もその
征韓論で動いた者がいないのです。
それより西南戦争に向けて、西郷も明治政府も突っ走っていきました。
征韓論そっちのけで、、、、、
不思議ですね。
征韓論はどこへ行ってしまったのでしょうか、、、、
それでは征韓論争というこの不思議な政争を見て見ましょう。
★西郷追い落としの口実、征韓論
岩倉使節団が、大失態を入れた約二年もの大旅行に出かけた間の
この二年間くらい、言論が自由で能率的に社会改革を進め、幕藩体制から
近代国家への変身を遂げた善政の時代は少ない。
木戸や大久保たちがいなくても、留守政府はしっかりとやっていたのです。
ちょうど木戸たちが帰って来たころに、朝鮮問題という世に言われる征韓問題が
政府内で問題になりました。
西郷は陸軍元帥兼近衛都督、後藤、大木、江藤が新たに参議に
なっていました。
この時、参議に長州出身者は一人もいない。
そのうえ、前記の汚職事件にみるように、司法の論理が強力でした。
そして帰国した木戸が、何を置いても取り掛からなければならなかった
征韓問題など、木戸にとっては二の次三の次であったのです。
それに今度の旅行で大久保との仲も、非常に悪くなっていた。
このままでは長州閥は後退する一方である。
とにかく西郷、江藤政権を打倒することが木戸にとっての最大の
急務であった。
子分の犯罪のもみ消しと、西郷江藤政権の打倒
これを目的として、木戸たちは、西郷らと対立するのです。
西郷江藤らを失脚させるために、木戸たちは征韓論を利用したのです。
そしてここで伊藤博文の登場です。
伊藤は木戸と大久保の仲を取り持ち、西郷江藤を追い落とす作戦として
征韓論を口実として、政権の転覆を図ろうとしたのです。
岩倉使節団の第一目的は、条約改正だが、手続きさえ不十分で
出発した所に失敗があり、大失態につながった。
木戸と大久保は互いに責任をなすりあい、対立し続けていました。
ところが帰国してみると、留守政府の西郷、江藤らに対し一丸となって
結束せざるを得ない状態だった。
留守の間に国内政治は、木戸や大久保などいなくてもいいくらい
うまくやっていて、彼らの付け込むすきはなかった。
この上、持ちあがった朝鮮問題を解決されてしまえば、長州抜きの
肥前中心の勢力になってしまう。
征韓論そっちのけで、ここから西郷江藤と木戸大久保たちの
熾烈な対立がはじまるのです。
もちろん、一応は征韓論を口実として持ち出すが、あくまでも
西郷江藤派と木戸大久保派の政権争いです。
これに負けて西郷は、辞表をたたきつけ故郷に帰るのです。
けれど歴史では征韓論に負けて、、、ということになっています。
一言で、征韓論に敗れてと言えば、スマートで裏で繰り広げられた
醜い政権争いなど連想させないので、そういうことに
したのでしょう、何しろ勝者なのでどうにでもいいわけができる。
それではその裏で繰り広げられた露骨で卑劣な醜い政変をみてみましょう。
いわゆるこれが明治六年の政変と呼ばれるものです。
決して征韓論をめぐる対立ではありません。
★征韓論の発端
その発端は朝鮮東來府が、釜山の大日本公館の門前に掲げた
抗議文です。
その文言が大問題に発展したのです。
その文言とは
「日本は西洋の物まねばかりをして、恥じるところがなく
対馬商人にしか、商売を許していないのに、これに違反した。
真に日本という国は、無法之国である」
というようなことが書かれてありました。
江戸幕府と朝鮮は、対馬藩を介して通信関係を維持してきました。
貿易では、対馬口を介しての交流もありました。
ところが江戸幕府から、明治政府になり廃藩置県によって
対馬藩という藩が消滅してしまいました。
そして明治五年九月、これまで対馬藩が管理していた草梁倭館を接収
大日本公館と名を変えて、外務省の管轄下に置いたのです。
明治政府は、徳川を倒したら同時に日本全国が手に入ったと錯覚したのです。
朝鮮にある草梁倭館は、名を大日本公館と変えて接収したからといって
その敷地建物は、朝鮮政府の所有物です。
対馬藩が使用許可を得て、商人と役人を滞在させていただけです。
ところが明治政府は、対馬藩関係者を退去させ、何の合意も成立しないまま
外務省関係者を派遣、駐在させたのです。
朝鮮側はこれに反発したのです。
そして両国間に緊張が発生しました。
そこへ三井の手代が、対馬商人の名義で商売をしようとして
朝鮮側は激しい取り締まりを行うようになったのです。
このような状況下で、あの抗議文が張り出されたのです。
明治六年五月には、朝鮮側は釜山の日本公館に食糧を供給することさえ
拒む状態で、明治政府は西郷を介して修好を求めさせたがそれにも応じない。
釜山の倭館からの旧対馬藩役人の退去もあり、それが朝鮮側の貿易取締りの
強化を結果するなど、両国の緊張感が高まっていました。
このころから日本側の征韓論が沸騰するのです。
この時外務省の筆頭は、外務小輔、上野景範でした。
上野はこの抗議文の事態を本国へ急報、太政官(正院)での審議を要請しました。
これが明治六年政変へ発展していくのです。
★明治六年の政変
明治政府の正院のメンバーは、
正使、岩倉具視
太政大臣、三条実美
参議、西郷隆盛、板垣退助、大隈重信、後藤象二郎、大木喬任、江藤新平
これに帰国した大久保利通、それに遅れて帰国する木戸孝允によって
政変は繰り広げられました。
綱紀粛正の先頭に立ったのが肥前の参議、江藤新平です。
長州にとっては目の上のたんこぶでしかない。
江藤を参議から追い出すには、大久保を参議にすることだとして
伊藤は岩倉に働きかけます。
西郷は朝鮮に使節を送り込むにしても、あくまでも平和的交渉のつもり。
西郷は誠実を持って話し合えば、必ず意を通じることができるという
思いが信念になっていました。
このころ、大久保も木戸も西郷の朝鮮派遣に強い関心を示していない。
大久保が西郷派遣反対で頑張るのは、参議に就任してからです。
そして八月十七日の閣議で、西郷派遣がきまるのです。
この時、使節団が帰国後に正式決定するという条件が付けられた。
岩倉は九月十三日に帰国、しかし閣議はなかなか開かれない。
一か月もたった九月十四日になって、ようやく開かれたが
その間に大久保の参議就任が行われ、さらに外務卿の副島が
昇格されている。
朝鮮使節派遣問題が棚上げになったまま、いたずらに日が過ぎ
西郷はしびれを切らし、太政大臣三条実美に厳しく抗議した。
これで西郷に征韓の意図があるのではないかと、憶測するようになる。
大久保を参議に起用する理由は、単に政府内の力関係だけでなく
西郷の征韓阻止といった意味合いをもつように変わってゆく。
そして十月十四日と十五日にわたって閣議は開かれます。
この席で大久保は、朝鮮に使節を派遣すれば、朝鮮は暴挙におよび
日韓両国の緊張が高まる、派遣の時期を延ばすべきだと主張
西郷は、誠意をもって事にあたり、平和的論議的立場を堅持すると主張
そして結果的に、西郷の朝鮮使節派遣が、満場一致で決定された。
大久保は、参議就任を承諾する際、三条と岩倉に二つ条件を出していた。
一つは、朝鮮使節問題に際し、絶対に途中で変節しないこと。
二つは、外務卿の副島を参議にすること。
こうなると大久保が参議就任に際して承諾した約束が反故になってしまった。
岩倉や三条は、絶対変節しないという約束を土壇場で裏切ったのです。
そして大久保を孤立させてしまう。
大久保は十月十七日、怒りの辞表を提出
木戸も辞表を提出、
十月十八日三条は急病のため、参朝できないと届け出
さらに翌日岩倉邸に辞表を提出した。
やがて岩倉は三条に代わり、太政大臣代理に任命され
岩倉は閣議決定で決定した西郷の朝鮮使節派遣問題の
閣議決定を裁可しないよう若い天皇を誘導したとされます。
かくして閣議決定は覆されます。
この岩倉の行為は、太政官職制をはじめとする廟堂の法に違反しています。
あってはならない天皇の政治利用です。
だから当然、この時の天皇の裁可は無効です。
無効であっても一応これを受けて、全参議が辞表を提出しました。
天皇の内閣不信任にあたり、全参議が辞表を提出しなければならないからです。
そして大久保の最後の仕上げが、全参議の辞表の選別受理でした。
岩倉は西郷、板垣、江藤、後藤、副島のみの辞表を受理し
木戸、大久保、大隈、大木、の辞表は却下しました。
なんとも露骨で醜いやり方です。
こうして大久保は反対派の一掃に成功したのです。
西郷以下の参議は、征韓論に敗れて辞職したわけではありません。
勝者は大久保利通
これにより肥前、土佐の勢力が衰退、あの留守政府で善政をしき
数々の施策を実行した内閣は滅び去りました。
代わって悪党が牛耳る薩長による、すべての面で官の圧力が強力な
時代が到来したのです。
明治六年政変の最大の受益者は長州汚職閥でありました。
西郷の胸には、新政府に対する失望と怒りが沈殿していました。
この時すでに西郷の胸には政府打倒の芽が宿っていたのです。
そしてそれは西南の役となって破裂します。
知ってはいけない明治維新著原田伊織他