気になるニュースチェックします。 -27ページ目

気になるニュースチェックします。

毎日気になる最新のニュースをチェツクします。

★睦仁親王の不思議な生い立ち

 

睦仁親王の生母は、権中納言 中山忠能の娘、中山慶子です。

この慶子が生んだ皇子は、祐宮(さちのみや)と命名され誕生後

30日目に参上して、天皇に謁します、後の睦仁親王です。

 

この時、女の子のように脂粉を使って、額に黛を入れたという。

祐宮は5歳まで慶子の許で育てられ、安政3年(1856)年の9月

慶子とともに御所に戻ります。

 

その時、祐宮が天皇の前で、

オーフィー オーフィー クチュー クチューと言って

にぎやかに歩きまわったので、天皇が尋ねると慶子は

【オーフィーは豆腐屋の、クチューは木靴屋の売り声です】と答えた。

 

祐宮親王は、豆腐屋または木靴屋の近くで生まれ育って

3歳ころ以降に中山家に来た、、、、

そして5歳になると、慶子とともに御所に戻った。

 

しかし中山家ではなぜか、祐宮を公衆の面前に触れさせまいと

努力した形跡があるという。

これはとても異常なことであるが、中山家では慶子が生んだという

祐宮が先々、何者かと交換することを予測していたのかもしれないという。

 

そして睦仁となり践祚したのが、慶応3年1月9日、満14歳でした。

践祚とは皇位を継承する儀式のことです。

そして大行天皇となります。

この睦仁が薩長の討幕の邪魔になり、殺されたのが慶応3年7月9日です。

大行天皇となってわずか半年です。

 

 

 

大行天皇の殺害方法は、御学問所で人形遊びの最中に、長州忍者の

使う猿に手を引っかれ、その傷に侍典医が毒薬入りの膏薬を

貼ったからだといいます。

この侍典医は、岩倉のてのものだという。

 

こうして殺された睦仁の遺体は、鬼子母神の菩薩像に仕立てられ

これを中山慶子が、修理に出すと称して5日間の宿下がりをもらい

八瀬の童子が、中山忠能邸へ運んだという。

そして桜木の根元に埋めて始末したという。

 

八瀬の童子とは、地租を免ぜられるかわりに、天皇家の葬儀に

関する雑役を引き受けていた人々です。

昭憲皇太后崩御の時は70名が上京して奉上し、明治天皇崩御の時は

50名の興丁と4人の取締役が上京して、奉上しました。

大正天皇のときも、105名の八瀬童子が、棺を担ぎました。

 

★睦仁暗殺後、即身代わり天皇となる

 

睦仁暗殺後、厚化粧をして変身した玉、寅之祐を内裏に入れて

即身代わり天皇とした。

この身代わり天皇の教育係を受け持ったのが、肥前佐賀藩主

鍋島斉正(閑叟)です。

当時、斉正は外国事情に通じた日本一の殿様と言われています。

 

斉正は上忍の木戸孝允に頼まれて、重い腰を上げ藩士を率いて

洋式軍艦で上京しました。

そして直ちに宮中に入って、玉の帝王教育に取り掛かる。

     (防長回天史)

 

その斉正は船上で一つの詩を作っています。

 

言うを止めよ

時事引いて 巡らすこと難し

天下帝王 補佐の才なからんや

京城の児女 まさに驚愕すべし

知るや否や 青龍海を翻して来るを

 

★身代わり天皇年譜

 

慶応3年4月13日、   玉寅之祐は俊輔の力士隊に守られて上京し

            二本松の薩摩屋敷に入る。

    7月9日、    睦仁暗殺される。

    10月13日、  玉寅之祐は討幕の密勅に睦仁と署名する

    10月14日、  慶喜の大政奉還の願いに、何食わぬ顔で

            御簾の中から受理する

    10月17日、  女装した玉は、秘密裏に御所を脱出

           西郷隆盛とその忍者部隊、長州力士隊に守られて

           英国艦に乗り周防麻郷の大室家に引き上げる。

           帰省した玉を迎えた大室家は、正式に大室天皇家となり

           官軍大本営となる

 

慶応4年3月14日、   玉は南殿に出御、公卿,諸候を召し連れ 

           五箇条の御誓文を発した。

   7月17日、   詔勅により江戸を東京と改称

   8月27日、   京都御所で玉の即位式を挙げた

   9月8日、    明治と改称し玉は晴れて、明治天皇となった。

 

明治元年9月20日、  明治天皇の素性が、一般民衆にバレないうちにと

           京都を発して東京に出発

           木戸孝允が遊撃隊を率いて随行している

    10月13日   東京に到着し、玉は西郷などと相談し

           江戸城を皇居と定めた。

 

明治2年5月      戊辰の役終わる

    6月     蝦夷地を北海道と改称

 

明治21年8月31日   大正天皇生まれる。

明治22年2月     大日本帝国憲法発布、伊藤憲法ともいう。

           この憲法により全国民は大東亜戦争へと突き進む。

★至上最悪の悪魔プラン

 

最後の仕上げとは孝明天皇の息子、睦仁を殺すことです。

とにかく早く討幕の密勅に署名をしてもらわねばならない。

慶喜の大政奉還の願いを受理してもらわねばならない。

睦仁ならば絶対にそんな要求には応じてくれない。

 

それならば

一刻も早く孝明天皇同様、睦仁を始末しなければならない。

そして自分たちの操り人形となる天皇をたてなければならない。

そこで史上最悪の悪魔プランを、岩倉や薩長側はたてたわけです。

 

それが史上最悪の悪魔プランと言われる天皇父子の殺害と

自分たちの操り人形となる身代わり明治天皇のすり替えです。

これを外国人に知られてしまったことで、日本はアメリカの奴隷となった。

 

なぜアメリカなのか、、、、

それはこれからわかってきます。

 

★大室寅之祐のことを書いた益田勝実

 

 益田勝実は、長州の国家老、益田弾正の一族です。

 彼は山口県熊毛郡田布施町麻郷に生まれました。

 孝明天皇の長子睦仁の替え玉となり、後に明治天皇となる

 大室寅之祐のこと、つまり「てんのうはん」のことを書いています。

 

 この文章はよくご存じの方は、何度も目にしていると思います。

 少し長いので、割愛しています。

 「日本政府の至高絶対の権威と、民衆の最期の実力行使は

  同じもの「てんのうはん」でならなかったとすれば、それが

  聞き耳を恐れての隠語にせよ、天皇制の未来、未来の天皇制を

  結果的に先取りしてしまっている。

 

  自分たちの秘匿しぬこうとする最後の結集形態が明治憲法が

  【神聖にして侵すべからず】と規定したものに置き換えられたのは

  彼らが現実の天皇と天皇の名によって力をふるう者とを

 いかに怖れたかを現わし、裏返しに自分たちの側の潜在的な力を

 いかに頼みにしていたかを示していよう。

 

 てんのうさまをお作り申したのは、我々だとは明治以前に生まれた

 長州の老人たちによく聞かされたことだった。

 彼らが求めている天皇と、現実の天皇といくらか融和できるうちは

 よいとして、その矛盾が激化すると天皇を取りかえてしまうほか

 なくなる、、、、、

 

 我が家に空襲で焼けるまであった孝明天皇使用の皿は

 おそらくまだ長州と天皇の間が、うまくいっていた蜜月時代に

 もたらされたものだろう。

 

 奇兵隊挙兵の翌年、1866年、慶応2年の暮れには

 孝明天皇は謀殺されてしまった。

 もちろん仕組んだのは、江戸幕府ではない。

 志士側で天皇が、討幕の障害になり始めたからである。

 今日ではこのことはもう、公然の秘密となっている。

 

 戦後、ある日、総理大臣吉田茂が、突如昔のように天皇に対して

 「臣茂」と言い始めて人々を驚かしたが、昭和の始め私が子供の頃には

 昼間の銭湯には、伊藤博文が初めて「臣博文」とやらかした時のことを

 覚えている老人たちが集まっていた。

 禁裏様から天子様、天皇陛下へと移り変わったことを彼らは知っていて

 天皇ファンが多かったが、【大した出世をしたものよ】と感心もしていた。

 一代の成り上がりの者、明治天皇をえらいとほめ、息子大正天皇の

 精神異常のエピソードを様々に公言する老人たちの寄り合いは

 数年後にはもう銭湯から姿を消した。

 安政、万延、文久生まれが急速にいなくなったからである。」

 

 

 

孝明天皇の長子、睦仁親王は父とともに益田勝実の言うように

志士側に殺されました。

そして睦仁の替え玉として、大室寅之祐という男が

明治天皇となります。

 

この大室寅之祐は、益田勝実と同じ山口県熊毛郡田布施の出身

益田勝実がこの事情をよく知っているのは、当然です。

 

★宮崎鉄雄の証言

 

 父親は渡辺平左衛門、渡辺家は嵯峨天皇の末裔であり、幕末は

 13000石の大阪城定番であった。

 定番とは城代家老に次ぐ役職です。

 

 平左衛門は自らを源西古(せいご)と名乗り本名は

 渡辺丹後守章綱である。

 この平左衛門は、将軍徳川慶喜の命を受けて孝明天皇暗殺の

 犯人を調べ、そしてやがてそれは伊藤博文と岩倉具視で

 であることを突き止めます。

 

 宮崎鉄雄氏は、15歳までこの平左衛門の子として育てられ

 後に宮崎という姓になったが、それは明治38年に男爵家の

 戸主となった宮崎敬治の養子になったからである。

 

 その宮崎鉄雄氏はこのように述べています。

 「大室寅之祐が睦仁とすり替わって、明治天皇になった事実を

  維新の革命家は知っているが、国民のほとんどは知らない。

  忠節なる臣民とか、赤子などとおだてられ、犬か豚のように

  とことん酷使され、鉄砲玉となってあの侵略戦争の犠牲となった

  国民のほとんどは、明治、大正、昭和といった奇妙な教育で

  自らを考えることのできない理性を失ったロボット人間に改造された。

  しかし慶応2年12月25日の孝明天皇暗殺は紛れもない事実である。

 

 中山や岩倉は天皇の遺体を洗い清めて、食中毒ということにして

 睦仁に見せたから、睦仁も一応は納得して慶応 3年1月9日に践祚した。

 睦仁は宮中の習慣によって、女装して女言葉で話すなど

 16歳にしては体格も悪くて、きゃしゃな少年でかつて岩倉の

 お稚児さんであった孝明の血筋をひく幼帝である。

 

 睦仁は女形の子役のような、ひ弱な体であったが、生まれながらの

 皇子で先帝に似て、強情であった。

 自分の叔母さまが縁づいた、徳川家を討とうとする勤皇家を憎み

 公武合体を主張した亡父の志を継ごうと決意して、討幕に反対した。

 

 私の父、渡辺平左衛門は明治になると、長崎市で青年学校を創った。

 明治初年に創られた長崎市稲佐の、渡辺青年学校は総面積35000坪

 木造総二階、、、、

 兄は渡辺魁といって、長崎で判事をしていたが、伊藤博文が派遣した

 長州人の刺客に稲佐橋付近で襲われ、刺客側は死者3人重傷8人を出した。

 

 この時父の平左衛門が重傷となり、明治27年永田町の本宅で

 死亡したことになっている。

 平左衛門は大阪城定番であったが、将軍慶喜の命を受けて

 孝明天皇暗殺の犯人を調べ、それが伊藤と岩倉であることを知り

 青年学校の生徒たちにそのことを公言していたから、命を狙われた。

 

 しかし平左衛門はこの時、九死に一生を得て大阪市淀川沿いの

 鴻池の倉庫に隠れて生き延びた。

 大室寅之祐は、長州奇兵隊の伊藤俊輔率いる力士隊の隊士であったから

 明治天皇になってからも、生涯伊藤を裏切らず伊藤に頼まれると

 彼と対立した重臣たちを、大根を切るように片っ端から切って捨てた。

 

 力士隊は萩藩お抱え力士40人ばかりが、山分勝五郎の肝いりで

 結成され遊撃隊に所属していたが、蛤御門の戦いで隊長の

 来島又兵衛が戦死したため、首領がいなくなりそこで若い

 伊藤が力士隊の親方を務めることになった。

 

 

 

★顔のない明治天皇

 

明治神宮外苑の聖徳記念絵画館には、当代一流の画家による

明治天皇の絵画や記念品が、ずらりと展示してあります。

ところが青少年期の明治天皇のお顔を書いた絵画には

どれもお顔が書かれていません。

 

微妙にかくしてあって、お顔がはっきり表れるのは、憲法発布の

式典の頃からでそれまでは、どういう顔をしていたのかわからない

という非常に異様な奇妙な状態になっています。

どうしてでしょうね、、、、ここからして明治維新もおかしいと気づく。

 

明治という時代は、孝明天皇暗殺に始まり、すり替えられた偽の

明治天皇即位によって始まりました。

伊藤博文らが作った伊藤憲法は、孝明天皇父子の暗殺をひたすら

隠して国民にその批判を許さず、国民の絶対服従を求め

天皇を【神聖不可】としました。

 

戦前には、不敬罪というものが存在しました。

歴史家は大逆罪を恐れて、天皇暗殺には一切触れませんでした。

岩倉は【国家の安危にかかわるような、事実は国民には知らせてはいけない】と

言って歴史の偽造を命令した男です。

 

それはそうでしょう、天皇父子暗殺という驚愕なる事実を国民にしらせたら

天皇すり替えという驚愕なる事実を、国民に知らせたら

それこそ国家の安危にかかわります。

歴史偽造も仕方ない、、、ということです。
岩倉具視が証明してくれました、明治維新は偽造の歴史だと。

 

 

 二人で一人の明治天皇著松重揚江より

 

 

 

 

 ★今更バラされたからといって

 

ここ数年で大日本帝国憲法、伊藤博文らが作ったこの憲法国に

しようという動きが着実に近づいて来ているという。

日本とアメリカは今は一心同体です。

 

アメリカは、戦争を終わらせるためには、正義という名の

暴力が必要だという。

平和のためには武力が必要だという。

日本は今までは、平和のために武力を捨てて

日本国憲法を守ろうという。

 

このアメリカの価値観に近づき、お国のために死ぬという

かつての大日本帝国に着実に近づいて来ているという。

アメリカに何でも、無邪気に従うばかりが能じゃないと思うけど。

 

しかしどうして、こうもアメリカの奴隷と化してしまったのか。

それもこれもみんな、明治維新に原因があったとされる。

明治維新とは、部落解放運動が明治維新となったのです。

 

幕末、伊勢神宮を参った人々は、つまりお伊勢参りです。

ええじゃないか、、、の旗を立てて革命を煽る集団と化した。

ここから明治維新の波が起こってきました。

玉、大室寅之祐も、この伊勢神宮に参っています。

 

松下村塾出身の志士たちに指導された、長州奇兵隊の中核を

なしていたのは、部落解放の夢に燃える賤民出身の若者たちでした。

 

日本がアメリカの奴隷同然となったのは、明治維新が原因です。

幕末のころは、外圧の嵐が非常に吹き荒れた時代です。

1846年、8月イギリス軍艦、那覇に来航

1849年、3月アメリカ軍艦、長崎に来航、4月イギリス軍艦相模に来航

1852年、8月オランダ商館長、幕府にアメリカの開国要求を予告

1853年、6月ペリーアメリカ軍艦浦賀に来航

     7月にはプチャーチン、ロシア軍艦長崎に来航

1854年、1月ペリー神奈川沖に来航、、、、、、、等々

 

以上のようにこの時代は、はじめから外圧の嵐が吹き荒れました。

だから当然、外国人も日本に多く来ていました。

アーネスト サトウも幕末のころに名前がよく出てきますがその一人です。

 

明治維新は、非常に日本国民に知られてはならない秘密が多すぎます。

けれどあの頃、外国人も日本に多くいた。

明治新政府も日本国民の口は、封じられても外国人の口までは

封じられなかった、、、、

 

そこで日本の秘密を外国人に知られてしまった、、、、

これをバラさせまいと、日本政府は外国の奴隷となっているのです。

けれどテレビ、新聞で報道されないだけで、今では多くの日本人の作家は

あの頃の明治新政府が犯した、暗黒の歴史を知ってその著作に

発表しています。

 

だから、いつまでも国民が知らないと思って、怯えていないで

アメリカの奴隷となることを辞めたら???と言いたい。

そりゃ全く知らない人も中にはいるだろうけど、ほとんどの人は知っている。

今さらバラサされたからと言って、驚いたりはしない。

 

それよりさっさと何もかも白日の下にさらして、国民に詫びて

日米安保条約を解消して、ホントの独立国家となることが

一番いいことだと思います。

勇気がいるだろうけど、、、、とてもできないだろうけど、、、、

 

●国家の公式見解はこうなっている。

 

それでは維新史の最大の秘密、孝明天皇の死は何だったのか、、、

★禰津まさし「歴史学研究一七三号」天皇は病死か毒殺か 

 

「公式には病死となっている。

 孝明天皇は慶応2年12月25日に痘瘡のため死去した。

 享年36歳であった、、、、

 これは当時朝廷で公式に発表され、今日にいたるまで宮内省と

 文部省などの一切の天皇制の機関によって、墨守され

 国民に確信させてきた「事実」である。

 

 公然と毒殺説を書いた文献は、一冊もなかった。

 ただ当時、日本に駐在していたイギリスの外交官、アーネストサトウの

 日記、「外交官の見た明治維新」に噂として記されているのが

 唯一の文献であるが、邦訳書ではこの箇所は削られている。

 

 第二に宮内省で編纂した「孝明天皇記]は、慶応2年12月16日から

 25日まで、中山忠能日記や二条家記、朝彦親王日記などを引用して

 痘瘡による病死説を証拠づけている。

 

 また文部省の維新史料編纂会が刊行した「維新史」も中山忠能日記などを

 引用して 天皇の死については、一点の疑惑も起こさせないよう

 編集してある。

 

 以上、病死説は、明治以来、敗戦までの天皇国家の公式見解であった。

 もし、病死を疑わせるような史料があれば、前記引用の公式記録以外は

 永久に公表を禁じられたにちがいない。」

 

 もう徹底的に病死説、以外はダメ、、、、

 しかし削られてしまったという

 この文章のなかにあるアーネスト サトウの「外交官の見た明治維新」に

 何が書いてあるのか見てみましょう。


 ★アーネスト サトウ「外交官の見た明治維新」
 

 アーネスト サトウは1867年2月9日、アーガス号で横浜から兵庫へ到着

 兵庫湾に停泊中のプリンセスロイヤル号の艦上で、天皇の崩御を

 日本の貿易商人から知らされました。

 

 「彼ら(商人たち)は、また、私に帝の崩御に関するニュースを伝えた。

  噂では帝の崩御された原因を、痘瘡としていた。

  しかし数年後、その国の内幕によく通じている一日本人によって

  私は帝が毒殺されたのだということを、信じるようになった。

  帝は所信をもって、外国人に対するいかなる譲歩も

  真っ向から反対された。

  そのため幕府滅亡の計画が早められ、強いて宮廷を西方権力との

  直接関係に巻き込もうとする、人たちによって帝は

  邪魔にならぬところへ片づけられたのであった。」

 

 以上の部分が削られてしまったのです、宮内省発表と違うので。

 

 この後も宮内省発表以外の文献が、出て来ています。

 

★宮内省発表以外の文献出てくる

 

 隠しても隠してもどういうわけか、こういうものは出てくるものです。

 昭和28年11月7日、上京区荒神口通寺町にある護浄院

 この寺は後陽成天皇以来、朝廷の信仰の厚い寺で

 常に僧正は、参内して加持祈祷を行っています。

 

 🌸湛海僧正日記

  この日記は僧正から輪王寺宮へ慶応3年3月に届け出た

  届書であって、表紙にはこう書かれていました。

  「主上御痘瘡に付、御祈祷御直加持裁仰せつけ候御届書」

  とあった。

  この日記には、天皇がこの日、突然激しい嘔吐、下痢を起こし

  苦しみぬいて死んで行った様子を如実に伝えている。

  この日記は禰津まさし氏が昭和28年11月7日立命館大学教授

  奈良本辰也氏とこの寺を訪問して発見

 

 🌸上乗坊の日記

  やはり加持祈祷で宮中に招かれて発見したもの。

  京都大学教授、赤松俊秀氏が京都府史蹟名勝天然記念物

  調査委員として寺宝調査に従事していて、その他諸氏とともに

  真言宗の誓願時に調査に出かけ発見したもの。

  この上乗坊の日記の12月25日の条に

  「天皇の顔には紫の斑点が現れて、虫の息で血を吐きまた御脱血」

  という記事が書かれて、赤松氏らは尋常の死に方ではないという

  強い印象を受けたという。

 

 こういう宮内省発表以外の文献が出てきました。

 宮内省はあくまでも病死説をとりたい。

 病死ならば犯人はいないことになる。

 毒殺だとしたら犯人がいることになる、、、それでは困る、、、というわけ

 天皇を殺した犯人をさがさないといけないわけだから。

 指摘しないといけないわけだから、、、、

 そこで天皇の死は病死ということにして、犯人を永久に隠したということです。

 

 けれど日本人にはこれで口を永久に封じられても、外国人には通用しなかった。

 アーネストサトウも安重根もあの頃、日本にいた多くの外国人は日本の

 この重大な秘密を知ってしまった、、、、天皇殺しを、、、、

 

 ★暗殺その後,睦仁は

 

 

 孝明天皇が暗殺されたという事実は、今では世に広く知れ渡っている。

 討幕派は邪魔な天皇を片付けた、、、、

 しかしその天皇の息子が同じ天皇と志が一緒ならば、せっかくの暗殺も

 徒労に終わる、、、、

 

 孝明天皇の息子、睦仁が父の遺志を守って行動すれば

 岩倉たちの計画は画餅に帰してしまう。

 孝明天皇を殺した後、果たして睦仁は岩倉たちの操り人形となって

 討幕に協力するだろうか。

 

 ●蜷川新氏はこう述べています。

 

「後年三条家の蔵を整理した際、三重の桐の箱が発見されて

 開いてみたところ、大行天皇(睦仁)の16歳の時の下手な文字で

 書いてある文書が出てきた。

 それには【徳川の功労を減しないよう始末しろ】ということを

 三条に命じてあった。

 討幕の密勅とは全く正反対の内容である。

 維新史料編纂の総裁、金子堅太郎が事の意外に驚いてそれを自ら

 小石川第六天の徳川の家に持って行き、

 【これが見つかったら慶喜さんも、定めしお喜びになった事でしょうに】

 と言ったそうである。

 このことは徳川家の家扶の古沢秀弥氏が私に語った実話である。 

 多年にわたってそれほど真相は隠されていたのである」

 

 睦仁にこんなことを命令されたのでは、目的を遂げるどころではない。

 岩倉と薩長にとって、睦仁は孝明天皇同様邪魔な存在でしかなかった。

 かくして暗殺グループは、最後の仕上げに着手する。