至上最悪の悪魔プランを実行に移す時 | 気になるニュースチェックします。

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★至上最悪の悪魔プラン

 

最後の仕上げとは孝明天皇の息子、睦仁を殺すことです。

とにかく早く討幕の密勅に署名をしてもらわねばならない。

慶喜の大政奉還の願いを受理してもらわねばならない。

睦仁ならば絶対にそんな要求には応じてくれない。

 

それならば

一刻も早く孝明天皇同様、睦仁を始末しなければならない。

そして自分たちの操り人形となる天皇をたてなければならない。

そこで史上最悪の悪魔プランを、岩倉や薩長側はたてたわけです。

 

それが史上最悪の悪魔プランと言われる天皇父子の殺害と

自分たちの操り人形となる身代わり明治天皇のすり替えです。

これを外国人に知られてしまったことで、日本はアメリカの奴隷となった。

 

なぜアメリカなのか、、、、

それはこれからわかってきます。

 

★大室寅之祐のことを書いた益田勝実

 

 益田勝実は、長州の国家老、益田弾正の一族です。

 彼は山口県熊毛郡田布施町麻郷に生まれました。

 孝明天皇の長子睦仁の替え玉となり、後に明治天皇となる

 大室寅之祐のこと、つまり「てんのうはん」のことを書いています。

 

 この文章はよくご存じの方は、何度も目にしていると思います。

 少し長いので、割愛しています。

 「日本政府の至高絶対の権威と、民衆の最期の実力行使は

  同じもの「てんのうはん」でならなかったとすれば、それが

  聞き耳を恐れての隠語にせよ、天皇制の未来、未来の天皇制を

  結果的に先取りしてしまっている。

 

  自分たちの秘匿しぬこうとする最後の結集形態が明治憲法が

  【神聖にして侵すべからず】と規定したものに置き換えられたのは

  彼らが現実の天皇と天皇の名によって力をふるう者とを

 いかに怖れたかを現わし、裏返しに自分たちの側の潜在的な力を

 いかに頼みにしていたかを示していよう。

 

 てんのうさまをお作り申したのは、我々だとは明治以前に生まれた

 長州の老人たちによく聞かされたことだった。

 彼らが求めている天皇と、現実の天皇といくらか融和できるうちは

 よいとして、その矛盾が激化すると天皇を取りかえてしまうほか

 なくなる、、、、、

 

 我が家に空襲で焼けるまであった孝明天皇使用の皿は

 おそらくまだ長州と天皇の間が、うまくいっていた蜜月時代に

 もたらされたものだろう。

 

 奇兵隊挙兵の翌年、1866年、慶応2年の暮れには

 孝明天皇は謀殺されてしまった。

 もちろん仕組んだのは、江戸幕府ではない。

 志士側で天皇が、討幕の障害になり始めたからである。

 今日ではこのことはもう、公然の秘密となっている。

 

 戦後、ある日、総理大臣吉田茂が、突如昔のように天皇に対して

 「臣茂」と言い始めて人々を驚かしたが、昭和の始め私が子供の頃には

 昼間の銭湯には、伊藤博文が初めて「臣博文」とやらかした時のことを

 覚えている老人たちが集まっていた。

 禁裏様から天子様、天皇陛下へと移り変わったことを彼らは知っていて

 天皇ファンが多かったが、【大した出世をしたものよ】と感心もしていた。

 一代の成り上がりの者、明治天皇をえらいとほめ、息子大正天皇の

 精神異常のエピソードを様々に公言する老人たちの寄り合いは

 数年後にはもう銭湯から姿を消した。

 安政、万延、文久生まれが急速にいなくなったからである。」

 

 

 

孝明天皇の長子、睦仁親王は父とともに益田勝実の言うように

志士側に殺されました。

そして睦仁の替え玉として、大室寅之祐という男が

明治天皇となります。

 

この大室寅之祐は、益田勝実と同じ山口県熊毛郡田布施の出身

益田勝実がこの事情をよく知っているのは、当然です。

 

★宮崎鉄雄の証言

 

 父親は渡辺平左衛門、渡辺家は嵯峨天皇の末裔であり、幕末は

 13000石の大阪城定番であった。

 定番とは城代家老に次ぐ役職です。

 

 平左衛門は自らを源西古(せいご)と名乗り本名は

 渡辺丹後守章綱である。

 この平左衛門は、将軍徳川慶喜の命を受けて孝明天皇暗殺の

 犯人を調べ、そしてやがてそれは伊藤博文と岩倉具視で

 であることを突き止めます。

 

 宮崎鉄雄氏は、15歳までこの平左衛門の子として育てられ

 後に宮崎という姓になったが、それは明治38年に男爵家の

 戸主となった宮崎敬治の養子になったからである。

 

 その宮崎鉄雄氏はこのように述べています。

 「大室寅之祐が睦仁とすり替わって、明治天皇になった事実を

  維新の革命家は知っているが、国民のほとんどは知らない。

  忠節なる臣民とか、赤子などとおだてられ、犬か豚のように

  とことん酷使され、鉄砲玉となってあの侵略戦争の犠牲となった

  国民のほとんどは、明治、大正、昭和といった奇妙な教育で

  自らを考えることのできない理性を失ったロボット人間に改造された。

  しかし慶応2年12月25日の孝明天皇暗殺は紛れもない事実である。

 

 中山や岩倉は天皇の遺体を洗い清めて、食中毒ということにして

 睦仁に見せたから、睦仁も一応は納得して慶応 3年1月9日に践祚した。

 睦仁は宮中の習慣によって、女装して女言葉で話すなど

 16歳にしては体格も悪くて、きゃしゃな少年でかつて岩倉の

 お稚児さんであった孝明の血筋をひく幼帝である。

 

 睦仁は女形の子役のような、ひ弱な体であったが、生まれながらの

 皇子で先帝に似て、強情であった。

 自分の叔母さまが縁づいた、徳川家を討とうとする勤皇家を憎み

 公武合体を主張した亡父の志を継ごうと決意して、討幕に反対した。

 

 私の父、渡辺平左衛門は明治になると、長崎市で青年学校を創った。

 明治初年に創られた長崎市稲佐の、渡辺青年学校は総面積35000坪

 木造総二階、、、、

 兄は渡辺魁といって、長崎で判事をしていたが、伊藤博文が派遣した

 長州人の刺客に稲佐橋付近で襲われ、刺客側は死者3人重傷8人を出した。

 

 この時父の平左衛門が重傷となり、明治27年永田町の本宅で

 死亡したことになっている。

 平左衛門は大阪城定番であったが、将軍慶喜の命を受けて

 孝明天皇暗殺の犯人を調べ、それが伊藤と岩倉であることを知り

 青年学校の生徒たちにそのことを公言していたから、命を狙われた。

 

 しかし平左衛門はこの時、九死に一生を得て大阪市淀川沿いの

 鴻池の倉庫に隠れて生き延びた。

 大室寅之祐は、長州奇兵隊の伊藤俊輔率いる力士隊の隊士であったから

 明治天皇になってからも、生涯伊藤を裏切らず伊藤に頼まれると

 彼と対立した重臣たちを、大根を切るように片っ端から切って捨てた。

 

 力士隊は萩藩お抱え力士40人ばかりが、山分勝五郎の肝いりで

 結成され遊撃隊に所属していたが、蛤御門の戦いで隊長の

 来島又兵衛が戦死したため、首領がいなくなりそこで若い

 伊藤が力士隊の親方を務めることになった。

 

 

 

★顔のない明治天皇

 

明治神宮外苑の聖徳記念絵画館には、当代一流の画家による

明治天皇の絵画や記念品が、ずらりと展示してあります。

ところが青少年期の明治天皇のお顔を書いた絵画には

どれもお顔が書かれていません。

 

微妙にかくしてあって、お顔がはっきり表れるのは、憲法発布の

式典の頃からでそれまでは、どういう顔をしていたのかわからない

という非常に異様な奇妙な状態になっています。

どうしてでしょうね、、、、ここからして明治維新もおかしいと気づく。

 

明治という時代は、孝明天皇暗殺に始まり、すり替えられた偽の

明治天皇即位によって始まりました。

伊藤博文らが作った伊藤憲法は、孝明天皇父子の暗殺をひたすら

隠して国民にその批判を許さず、国民の絶対服従を求め

天皇を【神聖不可】としました。

 

戦前には、不敬罪というものが存在しました。

歴史家は大逆罪を恐れて、天皇暗殺には一切触れませんでした。

岩倉は【国家の安危にかかわるような、事実は国民には知らせてはいけない】と

言って歴史の偽造を命令した男です。

 

それはそうでしょう、天皇父子暗殺という驚愕なる事実を国民にしらせたら

天皇すり替えという驚愕なる事実を、国民に知らせたら

それこそ国家の安危にかかわります。

歴史偽造も仕方ない、、、ということです。
岩倉具視が証明してくれました、明治維新は偽造の歴史だと。

 

 

 二人で一人の明治天皇著松重揚江より