「推し活」は、ねばならないではない。「好き」は、分からなくても、なくてもいい。 | 本当に笑いたい時だけ笑えばいい:ミニマムに生きる

 

「推し活」という言葉が、当たり前に使われるようになり、「誰推し?」という会話が日常的になった。多分10年くらい前は、「推し」がいる人はオタクと呼ばれていたかもしれない。しかし、今はオタクが世の中を回しているともいえる。

 

しかし、「推し」がいる人ばかりとは、限らない。

 

古い話だが、新卒で入社するときだったか、入社前だったかに、会社からのアンケートに、

Q:好きな芸能人を教えてください

というような質問があった。質問意図は分からない。

 

そのころ、私は特別好きな芸能人がおらず、本当に本当に困った。就職というタイミングで答えられない質問があることは、自分はダメな人間なんだと思うほど悩んだ。

 

これが、「好き」がないことの苦しさを知った最初です。そして、「好き」を強要される怖さを知りました。

 

しかし、その後、私は好きな著名人を見つけます。

今年、30周年を迎えたJリーグの選手。社会人選手であった反町康治さん。今は「現日本サッカー協会技術委員長 兼 Jリーグ理事(非常勤)」というサッカー界で生きている方です。

そして、俳優の内藤剛志さん。当時は、まだ2時間ドラマの犯人役が多かったです。

今でいう、かなりのヌマでした。

 

Jリーグに関しては、地方に観戦にも行きました。

だから、好きな人がいる気持ちを、知ることができました。

 

しかし、その後、音楽の仕事を始めたことで、芸能関係で「好き」と思える人が持てなくなりました。

作家の鷺沢萠さんは、特別な存在でしたが……。20年前に逝ってしまいました。

 

この記事、Yahooのタイトルは、「【XXしない女たち】「推し」がいない女たち 面白くなくてごめんなさい……」となっています。XXしない。これって悪いことなんだろうか? 謝る必要があるのだろうか?

と思い気になりました。

 

推しがいないことは、そんなにかわいそうなことなのだろうか? 意外なことなのだろうか?

多様性と言われる時代に、これを十把一絡げにする感覚が分からないのです。

 

推しに使うお金を自分に使って、喜びや充足感を得たっていい。
 
その人が面白いかどうかは、推しがいるかどうかで決まることではない。
「推し」が楽。「推し」に逃げてるとも思えてしまいます。
どちらかというと、面白い人であるために、無理に推しを作っているなら、その方が辛い。
それが私の新入社員時代だっただから。
 
「推し」に限らず、多くの人がしているよう報道されていることを「しないこと」が罪みたいになるのは嫌だな。
「しない」こともありでしょう。
そして、誰かを応援するオタクもいいけれど、自分自身を極めるオタクもいいもんだ。
 
「好きがないこと」「XXしないこと」を極めたっていい。
 
多様性と言いつつ、分かりやすい分類をしたがる世の中。
そんなものに合わせる必要はない。

ちなみに、今、推しが居ない状態。推しって、自然に生まれるもんだよね。
そして、趣味もない状態。趣味も自然に生まれるものだよね。
それは淋しいと思われるかもしれないけれど、自分が淋しいと思わなければ、それでいいじゃない? と思っている。