7860:相模原障害者殺人事件の被告の手紙を読む~存在価値とは? | ゴリィ【オルゴールアーティスト・カラーセラピスト・防災士】

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被告が事件前に衆議院議長に送ったとされる手紙の全文(一部、前文と言っておきながらカットしている文献もあるので注意)を読みました。
 
本当の全文がこちら。かなり刺激的な内容なので読む際は注意してください。
http://wwwave.net/blog/arok/ishihara/sagamihara-2016.html
 
まあ、凶悪犯罪によくある支離滅裂な話で、相手にすることはないと思います。ちょっとそうなった経緯に興味はありますが、それを紐解く時間は別のことに使いたいです(笑)。

結果的に被害者が「重度障害者」になったこと、被告の発言だけに注目することで「障害者差別」という言葉だけが先行しています。ただ、実際に「重度障害者」の当事者家族であり、自分自身も「障害者」である体験からすると、ドキッとする部分があります。
 
「家族も疲弊している」「家族に見放された障害者がいる」、この部分。実際そうです。ただ、「家族も疲弊している」という点は一面しか見ておらず、その裏ではたくさんの喜びもあります。これは私もそうです。
 
いっぽう、「職員も疲れ切っている」。これは「仕事だからな!」とツッコミたくなるところではあります。ただ、職員を「周囲の人」と置き換えたとき、ある意味言いえている部分はあるのです。
 
実際、私が仕事の継続が困難になり、出社するのが難しくなりはじめ、周囲の態度があからさまに冷たくなり、さらに引きこもるようになった時の私の生活は何をしても批判の的になりました。「家で遊んでいる」「黙って寝てろ」「なんでSNSやってんだ」等々。
 
ここだけ切り取ると、確かにその通りです。
 
「休職」だったので「送別会」もなかった(これ自体も戻って来いというメッセージだったかも?)のですが、名古屋から発つ最後の日に、先輩と一番私に風当たりが冷たかった同僚がカラオケに誘ってくれました。
 
そして、1年後正式に退職が決まった後、上司の転勤の送別会にわざわざ私を呼んでくれました。当時、金髪でアクセサリージャラジャラの私を見て「元気になったね」とその場は喜んでもらいました。
 
考えると、障害者であろうと一般人であろうと迷惑をかければ相手は嫌な顔をしまう。当然の反応です。でも、なにか嬉しいことがあれば相手が喜ぶ。この人間関係に、「障害者」だからという垣根は存在しないように思うのです。

 

さて、「障害者」と「生産性」について。被告は「重度障害者」には「生産性がない」から「生かしておくことがお金の無駄遣い」と述べています。
 
実際、私も市民税が課税される収入はない上、「障害者年金」というものをもらっています。「障碍者雇用枠」で働いてはいますが、それが「生産性」のあるものかも疑問。重度でなくとも、この問題に関しては事あるごとに悩まされています。
 
ただ、思うことはあります。
 
「その人(障害者)が生産性を生んでなくても、誰かの生産性を高める原動力になり得ること」
 
重度障害者でも、表情などで意思表示できることがあります。体がちょっと動いた、笑顔を見せた、なんか喜んでそう、家族はそんなことに支えながら毎日を生きています。
 
これって生産性に貢献していることになりませんか?
 
こうなると、「障害者」も何も関係ないのです。困っている人に「大丈夫ですか?」と声をかける。それに対して「ありがとう」という態度を示す(口にできなくてもいい)。
 
それだけで声をかけた側は心が満たされる。当然、「生産性」も向上します。
 
もう、そうなると「生産性」って関係なくないですか?
 
どんな人間であっても、目の前に映っている人がいます。その人を笑顔にする可能性はあるのです。その人を笑顔にできること、それが「存在価値」なのです。
 
あるアーティストの曲の歌詞を引用させていただきます。
 
「その目に映ってる人くらい支えられたなら 世界は変わるのに」
 
困っている人に声をかけられない、そして声をかけてほしい人が「声をかけてください!」と声をあげなければならない社会。まだ多くのひとがこの簡単なことに気付けていないような気がします。
 
あえて問います。
 
「あなたに本当の『存在価値』はありますか?」