人生の振り返り② | HSPでACの私の生きづらさと向き合う日々※※うつ病と共に※※

HSPでACの私の生きづらさと向き合う日々※※うつ病と共に※※

2020年、職場でのパワハラがきっかけで適応障害にて休職→退職。
現在も心療内科にて治療中のアラフォー主婦です。
HSPかつアダルトチルドレンの私の、自分と向き合い、生きづらさを手放していくべく、3歩進んで3歩戻る(汗)日々を綴っています。

「SUNNY ~強い気持ち、強い愛」を
観た。

ちょうどドンピシャな時代で。
私は地味な高校生だったけど、歌とか
懐かしかった照れ

ストーリーも良かったな。


間が空いたけど、人生の振り返り②を書きたい
と思う。


人生の振り返り①はこちら
下矢印
私が中2の頃だったと思うけど、スーツを着た
父に「庭で写真を撮ってくれ」って頼まれた。

またそれ以降、父だけ「夕ごはん外食してくる」と
出かける事が多くなった。


怪しい・・・
その頃から、状況を察するのが普通だった私は
そう思っていた。

予感は的中し、お見合いをしたことを告げられた。


思春期まっただ中の私。。
中学の連絡ノートに複雑な心境を書いたけど、
担任からたいしたフォローも無かった。

でも、そこまで反対する気持ちも無かった。


お相手の方は、父より年下の初婚の方。

1回、家に来てて父とキスしてるとこを
見かけてしまった時は、さすがに動揺した
記憶がある。。


お相手が初婚という事もあり、結婚式をした
のだけど、その日生理痛が酷くて、まさかの
私欠席(苦笑)
同級生の友達が、背中さすってくれてたな。

親の結婚に複雑な心境の娘みたいになってた笑い泣き

それと子ども置いて、1泊だけど、新婚旅行
行ってたな。


ただ絶対反対!という気持ちはなく、父の事を
相手してくれる人ができる・・・と少し
安堵したような気もする。

亡くなった母の事は「母さん」と呼んで
いたんだけど、新しい母の事は「お母さん」と
呼んでいた。
(ちょっと区別をつけたかったのかな)


弟は嬉しそうだった。


しばらくして、父が劇症肝炎で入院。
一時は今夜が峠ですと言われる程だったけど、
奇跡的に回復。

その後、何度か入院してたな。。

お母さんも、結婚して早々大変だったよね。



私は父の気分の上げ下げが嫌いだったので、
入院でいない間は平和だった。

お母さんは、良く実家に帰ってた。


中学・高校時代の記憶はあんまり無い。

お母さんに気を遣い、父とよく喧嘩したな・・・



私が高校3年生の時、クラス替えで、仲の良い
友達が誰もいないクラスになった。

私は、地味で目立たないタイプ。
クラスの大半は、派手でグループが出来上がってる
ような子達だった。

2年生の時の担任に理由を聞いたら、「クラスを
決める会議の時に私がいなかったから」って。

今思えば酷い話だな。。


クラスに馴染めなかった私は、春の遠足も欠席。
文化祭も、生徒会執行部の方を手伝って、
クラスの出し物は不参加だった。

担任の先生もあまり一緒に考えてくれるタイプじゃ
なかった。


学校では、いつも孤独を感じていた。


高3になり、進路を考えるとき、私はどうしても
家を出たかった。

幼稚園教諭になりたいという思いがあり、
学生寮のある大学に進学することになった。

亡くなった母方の祖父は反対。
亡くなった母の弟が、「お母さんが残してた
定期預金があるから、それで行かしたる」と
言ってくれた。
あと、毎月2万円仕送りしてくれるとも。
(その約束は数ヶ月で破られた)


おじいちゃんは最後まで反対してたけど、
地元を出る前に「頑張ってこいよ」と言って
くれた。


それからしばらくして、おじいちゃんが
喘息の発作で亡くなった。


亡くなる前に遺書のような手紙を書いて
いたんだけど、弟の事だけ書いてた。


最後に「頑張ってこいよ」と言ってもらえて
良かったけど、寂しいきもちがあった。



地元を出る事で、色んな事から解放されて、
新たな私で頑張るんだとそう思っていた。



新しいお母さんが出来たことは嬉しかった
けど、甘え方がよく分からなかった。
お母さんに負担を掛けすぎたかも。


続く。