流れが淀む時は、

たくさんのきれいな水で流したい



村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」を読んでいるところなのだけど、

『流れが淀んでる』云々の話が出てきて、そんなことを思った





さて、話は全然変わりますが、


今週末、

友達に会いに行きます。



そうだ、京都に行こう

ということで、京都の地を踏んで、

寝屋川の友達の居場所を訪れる予定


そんなに久しぶりじゃないのに、

なんだかとっても久しぶりな気がする




多くの時間や言葉や思い

たくさんの要素が積み重なった関係



会いたいなって思う

どうしてるかなって思う

大丈夫かなって思う


一緒に過ごす時間、

掛け合う言葉、

存在がとっても

大事に思える。


そんなともだちとの関西での時間


いっぱい話そう。

楽しみにしてるね



得ようとしなくても圧しつけられて、

目に耳にする情報が多すぎる。


・・・のだと思う



本来、

自分なりの考え、ロジックがあって

結論が導き出されるはずなのに、


自分の中を情報が通り抜けているだけなのに、

なんだかわかった気になってしまう。


単に結果を、言葉を知ってるだけなのに。

自分自身を介した答えが、結論へとつながっていくはずなのに。


情報社会の情報過多な状況に

思考も生活も、ともすると慣らされてしまう




ある本を読んだ人が話してたことを受けて、

そんなことを思った。


ある価値観を持つのにも自分のロジックがあるはずなのに、

価値観だけがそこにあって、

その実ロジックに欠けていたりする。

或いは、ねじれがあったりする。


「私はこう思います」と、価値観をばんっと提示できると、

体裁は整うし、相手も自分も安心する。


だけど、入れ物の中身についてはあまり問われないことをいいことに、

中身が全然なかったり、入っているべきものが見当違いだったりすることに

本人自身気づいてなかったりするんじゃないか。





銀座にある画廊なるものに行った。


人物画の展示を見たのだけれど、

モデルさんが持ってる美と静けさとが

背景からくっきりと浮かび上がるような

澄んだ美しい絵だった



美女採集を自らのライフワークとしている清川あさみさんが

「美女の文化的価値は素晴らしい」

っていうようなことを言ってたのを思い出した。

(っていうか、美女採集がライフワークって。

それがすごいと思いますが)



美人は文化的価値そのものだと思う。

「美女」っていう認識をされることが、

その存在自体に文化的に価値があるということだし、

絵画として描かれること、

形をもって残されることで芸術になる。





さて、綺麗な人を見て、

「わぁっ♪」って思う体験は男性にでも女性にでもあるけれど、

男性のテンションの上がり方は、女性とはちょっと違うように思う。


そして、

そんな感覚を生みだす女子の美しさを作るのに、

男性も大いに貢献してたりする。

芸能人は見られることを意識するから綺麗が持続すると言いますが、

一般人にも通じるところはあって・・・

「綺麗だね」と言われていれば見られていることを意識するし、

褒められることで、さらによくあろうと気を使う。

美女は、本人の意識していない部分で、

創造、維持されているのです。




褒められることで気分・美が上がるのは女性にとってのプラス。

美人さんが増えるのは男性にとってプラス。



すごいな、相乗効果だ。




というわけで、

褒めよ、男子。

恋せよ、乙女。


・・・間違えた

磨けよ、女子。